2024
03.17

アパルトマンで見る夢は【全文掲載ver.】

Category: 小説

リンゴアパルトマンで見る夢は
 現代ドラマ(全15話)
 諦めることは簡単だ。それでも前を向く。
 もう一度、夢の続きを見たいから……。

 仕事に行き詰まりを感じた女優、舞花。
 逃げるように来た引っ越し先で、
 どこか不思議な絵描きと出会う。
 ▽目次(クリックで展開)

 
 座る  1 椅子


 白髪頭の監督は、お辞儀をするように下を向き、その顔を両手で隠した。

 体が前へ傾いたことで、彼の座っていたパイプ椅子が、キィ……と小さな音を立てた。

 静まり返った広い部屋に、その音だけが通って聞こえた。

 数秒後に、ピタピタ、と、裸足の足音が近寄ってきた。

 自分のすぐ正面で止まるのを、監督は闇の中で感じ取った。

 両手をそっと顔から下ろして、目を開くと、白くて細い足が二本、きれいに揃っているのが見えた。

「駄目だ」

 監督はかすれた声を上げた。白い足がわずかにずれた。

「お前は、キミカじゃない。キミカならもっと、上手くできたはずだ」

「私には無理です」

 か細い声で、彼女は言った。

「私にはまだ、この役はできません。セリフが頭の中で、空回りして、どうしても掴めなくて……」

 足先が後ろを向いた。

 監督は、膝に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。パイプ椅子がまた、先ほどと同じような音を立てた。

 背を向けた彼女を見る。緩いウェーブのかかった栗色の髪が、青いワンピースの腰の辺りまで伸びている。

 今度は彼女が、両手で顔を隠していた。肩がかすかに揺れている。

 監督は、声を低くして、孫ほどの年の離れた娘を、諭すように話した。

「俺は、お前の才能を、買ってるんだ。できるようになるまで、稽古をつけてやる。キミカがしたように、お前もやればいいんだ。お前にとっては、至極、簡単なことじゃないか」

「だから私は、キミカじゃないのよ!」

 彼女の叫びは、がらんとした部屋の壁に当たって、監督の耳に痛く響いた。

「私は、舞花よ。それ以上の何者でもないわ。何度やれと言われても、今の私には、キミカのようにはできないのよ」

 監督の口から、大きなため息が出た。固く目を閉じると、眉間のシワが、さらに深く刻まれた。

「よし。ならば、こうしよう。お前に時間をやる。その代わり、俺の提案を呑んでくれ。ここに、キミカを連れてこい」

 舞花は大きな目を監督に向けた。監督の口から、低く絞った声が放たれる。

「キミカを、ここに連れてくるんだ。これは、お前にしかできないことだぞ」

 監督は上着のポケットから、茶色い手帳を取り出して、その場で素早く走り書きした。

 破ったメモを、舞花の手に握らせる。舞花は無言で、そのメモに視線を落とした。

 地名と番号が、筆圧でついたへこみとともに、右肩上がりに羅列していた。

「行け。彼女が見つかるまでは、この稽古場へは顔を出すな」

 小さく「はい」と言って、舞花は逃げ出すように、裸足で部屋を駆けて行った。

 その足音が消えるまで見送ったあと、監督はポケットに手帳を戻しつつ、言った。

「はたして……」

 独り言の続きを、監督は胸の内で、短くすませた。

 舞花は、あの子に出会えるだろうか……。

 そして再び、古いパイプ椅子に、深く身を沈めた。

 錆びた椅子の短い悲鳴は、自分の心の声を、忠実に代弁したかのように、監督には思えた。

 
 スーツケース  2 スーツケース


 三鷹舞花は、黄色いスーツケースを転がしながら、坂道を上っていた。

 サンダルから出たつま先の、赤いペディキュアが、踏み出すたびに光るのを、繰り返し見ていた。

 ボタニカル柄の、すその長いスカートが、足にまとわりついてくる。

 なぜ、こんなことになったんだろう……。

 いつもはマネージャーに持たせるはずの、重い荷物を、自分の手で運んでいるなんて。

 要領の悪いマネージャーの顔を、その時ふと、思い出した。

 メールでスケジュールを送信してくるのだが、毎回、誤字が混じっている。何度注意しても、ニコニコと笑ってはぐらかす、年の若い女の子。

 今回彼女は、一ヶ月先まで空白になった予定表を、舞花の携帯に送ってきた。

 何かの間違いじゃないかしら。そう疑ったが、今回ばかりは正しかった。

 一ヶ月まるまるのオフ。でも休養期間じゃない。キミカを探すという、使命がある。これは、仕事だ。

 急に、引っ張っていたスーツケースが、軽くなった。

 坂道が終わり、平坦な道になっていた。

 舞花は足を止め、顔を上げて前を見た。

 つばの広い、麻の帽子と、大きめのサングラス越しに、白い建物が見えていた。

 いくつも並んだクリーム色の窓枠が、どことなく西洋風のおもむきを出している。

 握りしめて、シワくちゃになっていたメモを、舞花は読んで確認した。

「アパルトマン・多田……。ここね」

 ここで、私はキミカに会って、一緒に、監督の元へ帰るのだ。

 歩き出そうとした舞花は、不意に斜め前方から、誰かの強い視線を感じた。

 足を止めたまま、そちらを向きもせず、舞花はその場で身構えた。

 あの感じに似ている……パパラッチの、カメラのレンズが光る感じに。

 そして舞花は、「ガシャン」という、何かが地面に落ちる音を聞いた。

 反射的に振り向くと、そこに、一人の男が立っていた。

 男の足もとに、茶色いトランクが転がっていた。金属の鋲が打ってある。音の正体はこれだった。

 しかし、それよりも舞花は、男の着ている服のほうに目が行った。

 シャツの模様は、中央の開きから、左右でアシンメトリーになっており、それぞれが水玉とボーダーという、派手さだった。くるぶしより上のパンツと、素足に革靴を合わせている。そして頭には、麦わら帽子。また顔には、黒縁のメガネ。

 男は少し驚いたような表情を、その顔に張り付けて立っていた。視線は、ずっと舞花に注がれている。

 舞花が無視して顔を伏せ、また一歩、建物へ踏み出そうとすると、

「あっ……」

 と、言って、男は自分のトランクに手を伸ばした。

 男の行動が気になってしまい、舞花は歩き出せなかった。

 男はトランクを開けて、中からスケッチブックを引き出した。派手なシャツの、胸ポケットに差していた鉛筆を持ち、忙しそうに何かを書き始めた。左利きだった。

 舞花がいるか確認するように、時々顔を上げて見る。

 そのうちに舞花は、彼がこちらの姿を描写しているのだということに、気がついた。

 舞花はスーツケースをそこに立てて置くと、サンダルの靴音を強く鳴らせて、男に近づいてから、言った。

「ねえ、失礼じゃないかしら?」

 男は慌ててスケッチブックを小脇に下ろした。

「ああ、あまりにも美しかったので……すみません」

 自分への褒め言葉を聞いて、少し微笑みかけたけど、次の瞬間舞花は、後ろでまた「ガシャン」という音を聞いて、振り返った。

「あー、荷物が」

 と男が言って、倒れた勢いで坂道を転がってゆく、黄色いスーツケースを指差した。

 傾斜に沿いつつ起き上がり、それは体勢を立て直した、かと思うと、そのまま滑らかに加速していく。

 ゴロゴロゴロ……と遠退いてゆく車輪の音を聞きながら、舞花は深いため息をついた。しかしすぐに、男が言った。

「取ってくる」

 舞花の手にスケッチブックを預け、男は軽やかに走って行った。

 スケッチブックに描かれた、何本もの細い線。

 舞花はそれをじっと見つめた。

 真っ白な紙に、描きかけの自分。まるで消えかけたような、今の自分を想像させる……。

「三鷹様」

 アパルトマンのほうから、太い声で名前を呼ばれた。

「ようこそ、三鷹様。お早いお着きでしたね」

 中年の男が、出迎えで来ていた。

「初めまして。オーナーの多田です。あの監督とは、古い友人でしてね。彼に言われた通り、送られたお荷物はもう、部屋の中に運んでおきましたよ」

「ありがとうございます」

 舞花はスケッチブックを、地面に寝ているトランクの上に、そっとのせた。

「そちらもお運びしましょうか?」

 オーナーの問いかけに、舞花は微笑んで答えた。

「いいえ。それよりも、私がここに入居するということは、くれぐれも内密でお願いします」

「ええ、その件は承知してます。もうお気づきかと思いますが、この辺りはずいぶん、人通りも少ない街でしてね。坂の上には、このアパルトマンしかございません。こんな寂れた田舎に、一流の芸能人が来たと知れたら、街中の人々が総出で、坂に押し寄せることでしょう。そんな危ないことは、できませんよ」

 ハハハ、とオーナーは、ポロシャツの上からでも分かるほど、お腹を揺らせて笑った。

「ああ重い。何が入ってるんだコレ」

 先ほどの男が、舞花のスーツケースを持ってきながら言った。「ありがとう」と声をかけて、舞花が受け取る。

 その時、強い突風が吹いて、男のかぶっていた麦わら帽子が、後方へと飛ばされて行った。

「ああっ!」

 叫びながら、男が帽子を追いかける。上ってきたばかりの坂を、すぐにまた下って行った。

 オーナーは舞花に、にこやかな笑みを見せて、落ち着いた声で言った。

「それでは、お部屋へご案内いたします。指示通り、お荷物の一部は、すぐに使えるよう準備させてもらいました。長旅でお疲れでしょうし、ゆっくりとお休みになってください。あ、それから……あいつはうちのバカ息子なんですが、どうぞお気になさらずに」

 
 ベッド  3 ベッド


 スーツケースの中に詰められた、たくさんの化粧品。

 舞花はその一つひとつを手に確かめながら、鏡台の上に並べていった。

 化粧水、乳液、美容液、コロン、ファンデーション、チーク、リップグロス、アイシャドーにアイライナー……。

 すべてのケースに、ハイブランドのロゴマークが刻まれている。

 転がった衝撃にも耐えたのだろう。割れたり、ヒビが入ったりしたものは、一つもなかった。

 舞花は顔を上げ、白い縁飾りのついた鏡を眺めた。

 外した帽子とサングラス。髪の毛を手ぐしでとき、後ろで一つにまとめる。サングラスの跡がないか、鼻筋を指でなぞってみる。

 鏡の向こうに、この部屋の様子が反転して見えた。

 白を基調とした、備え付けのアンティーク家具。

 細い足の、丸い机。背もたれの高い椅子。幅の狭いベッド。オフホワイトの、クローゼットの扉。

 舞花はクローゼットを開けてみた。さっと左右に目を動かすと、すぐにまた閉じた。

 中のハンガーにかけられていた、青いワンピースのすそが、扉の間に挟まった。

 くるりときびすを返し、舞花はこの部屋を出た。

 他の部屋を、静かな足取りで見て回る。

 コンパクトなキッチン。シンプルなユニットバスと、ドアの幅しかないトイレ。小さな洗濯機と、洗面台。窮屈な玄関。それですべてだった。

 ベッドのある部屋に戻ると、舞花は椅子を窓辺に寄せて、そこに座った。

 部屋は狭いけれど、眺めは壮大だった。

 街並みが遠くまで見渡せる、丘の上のアパルトマン。

 あの坂が、さっき上ってきた道で……あっちにあるのが、スーパーと、その向かいは花屋さん。

 舞花は指で、内側から窓をなぞった。

 あれが図書館でしょ、それからあれが、喫茶店。ハサミの看板は、きっと床屋さんね。その奥が……えっと、郵便局かしら。

「ようっ、三年ぶりだな!」

 オーナーの声が、すぐ下から、この三階まで響いて聞こえた。

 舞花が視線を下ろしてみると、アパルトマンの前に、オーナーの多田がいた。先ほど会った息子と、そこで立ち話をしているのが見えた。

「えっ? ここでか?」

 オーナーの太い声しか聞こえない。息子は小声で何かを喋り、しきりに頷いていた。

「まぁ、いいけどよ」

 どうやら、何らかの許可が下りたようだった。息子はにっこり笑うと、手にしていた麦わら帽子をかぶったので、もうその表情は見えなくなった。

 オーナーは息子の茶色いトランクを手に、アパルトマンの中へと入った。息子のほうは、坂道をまた歩いてゆく。

 彼、さっきからあの道を、何往復しているのかしら……。舞花はほんの少しだけ笑った。

 それから窓辺を離れると、そばのベッドに横になった。

 一眠りしておこう。時間はこれから、まだまだたくさんあるんだし……。

 目覚ましもかけずに眠れるのは、今まで時間に追われていた舞花にとって、本当に、久しぶりのことだった。



 空腹で目が覚めた。

 壁にかかったローマ数字の時計が、午後七時を回っていた。

 舞花は掛け布団を足で蹴って、伸びをした。

 アクビをすると、同時にお腹の虫が鳴った。

 ベッドから起き上がって、ぼんやりと周囲を眺める。

 ここは……そっか、アパルトマン……。監督の指示に従って、一ヶ月間、過ごす場所。キミカを見つけて、彼女と一緒に……。

 舞花はベッドから降りて、鏡を覗いた。

 暗い。

 部屋の壁を伝って歩き、電気のスイッチをオンにした。

 小さなシャンデリアの、暖かみのある光が部屋を照らし、家具の影を壁に映した。

 また鏡の前に立ち、手ぐしで、崩れた髪を結び直す。

 ドアを開けて部屋を出た。

 裸足で短い廊下を歩き、キッチンまで来ると、冷蔵庫らしき光沢のある扉を開けた。

 中は暗くて何も見えない。

 寝室から漏れる明かりで、コンセントが差さっていないことに気がついた。

 ここでは何もかも、自分でやるのね……。

 舞花は冷蔵庫のコンセントを差し込み、中身が空っぽなのを確認してから、扉を閉めた。



 夜のスーパーは活気のない場所だった。

 念のためサングラスをしてきたが、細い通路をすれ違ったのは、三人の主婦らしき女性たちだけだった。

 舞花は商品棚から、買い物かごへ、ミネラルウォーターのペットボトルを入れようとしたが、すぐに戻した。

 水は、蛇口をひねれば出る。今後は必要なものしか、買わないようにしよう。

 オレンジを二個、牛乳を一パック、食パンを一袋、バターと、ハム。それぞれをかごに入れて、レジへ向かった。

 レジの前で、男性の店員が二人、低い声でお喋りをしていた。

「ようじって、漢字でどう書くんだ?」

「カナメって字に、二つです」

「そっか。昔は一緒のクラスだったのにな、俺たち。あ、お客さん」

 頼むわ、と言って、その店員は離れて行った。残った要二という店員が、舞花のかごを受け取った。

 いらっしゃい、の挨拶もなしに、黙々とバーコードを読み取ってゆく。エプロンから出た腕は、機敏だった。

 精算を済ませると、覇気のない顔で、お辞儀をされた。

 舞花はレジ袋に商品を詰めると、自動ドアから表へ飛び出した。サンダルの足で少しだけ走って、立ち止まる。

 知らない場所で、一人で買い物をするのは、何だか緊張してしまう……。

「あの!」

 急に後ろから声をかけられ、舞花は素早く振り向いた。なぜか、要二が立っていた。

「お釣り、渡すの忘れてしまって……」

 舞花の手を引き寄せて、要二は小銭を掴ませた。

「ごめんなさい。この時間帯になると、どうしても目がかすんじまって」

 要二は目をしばたいた。

「あ、どうもありがとう……」

 舞花が言うと、要二は軽く会釈してから、走ってスーパーへ戻って行った。

 舞花の胸は高鳴っていた。要二に、正体がバレてしまったのかと思った。でも、そうじゃなかった。



 軽い夕食を取って、お風呂へ入る。

 バスローブで鏡の前に立ち、顔のケアをして、髪にドライヤーをあてる。

 ベッドの上で足のマッサージをしていると、これらの一連の流れに、舞花は意識が向いていないことに、気がついた。

 頭の中で、あの覇気のない、けれど美しい要二の顔を、繰り返し繰り返し、思い出していた。

 ベッドに腰掛けて、舞花は自分の手をさする。

 一般人に、一目惚れをした女優……。まるで映画みたいな恋ね。

 お釣りを渡される時、引かれた手の感触が、舞花の心にはまだ残っていた。

 
 リンゴ  4 リンゴ


 キッチンの棚にあった果物ナイフを、キレイに洗い、オレンジを切った。

 同じ棚から白い皿を取り出し、それも洗って、切った身をそこに並べる。

 寝室に戻って、丸い机の上で食べた。

 朝食はいつも、味気ないサプリメントを噛んでいたから、とても新鮮な気分だった。

 窓から白い朝日が差し込む。鳥の影が横切ってゆく。ゆっくりとした時間が流れる……。



 青いワンピースに着替えた舞花は、昨日の服やタオル類を、洗濯機の中へ放り込んだ。

 洗剤は、床に置かれたダンボールの中にあった。その他にも、ここから昨日、シャンプーやリンス、ドライヤー、歯ブラシなどの日用品を発見し、使用した。

 メーカーはすべて舞花の知らないものだった。これらすべてが、監督の好みによるものなのか、それともマネージャーが用意したものなのかは、謎だった。

 ただ分かったことは、名の知らない安物であっても、それなりには役に立つ、ということだった。

 洗濯機の使い方は分からなかった。

 ボタンに書かれた文字を見ながら、なんとなく適当に押していくと、機械音が鳴って、動き始めた。

 洗濯物は、浴室の上から吊るされていた竿に、引っかけて干した。



 テレビもない、新聞もない。

 ファッション雑誌も、漫画も、ラジオもない。携帯さえも、置いてきた。

 舞花は椅子に座って、窓からの景色を、ただずっと眺めていた。

 人も車もまばらだった。動かない建物だけが、陽に反射したり、雲に陰ったりしていた。

 時計の針が十一時を指す。

 買い物に行こう、と舞花は思った。

 坂道は長くて疲れるけれど、いい運動になるもの。それにまた、あの要二という人に会えるかもしれない……。

 舞花は鏡を見ながら髪をくくると、サングラスをかけ、部屋を出た。



 アパルトマンのすぐ前で、昨日はなかったものを見た。

 木のイーゼルに立てられた、小さな看板。カラフルな色で、「かけるくんの似顔絵コーナー」という文字が、ポップな字体で描かれていた。

 その横に、古びた木の箱が三つあり、三つとも側面に、リンゴの絵が薄く印刷されている。

 一つの箱の上には、無造作にスケッチブックがのっていた。

「きみに似た人を、知ってるよ」

 突然、オーナーの息子の声がした。手に何本もの鉛筆を持ち、アパルトマンから彼が出てきた。

 赤と青という、非対称の色合いの、小さな花模様のシャツを着ていた。頭には、大きめのベレー帽をのせている。顔には黒縁の、昨日と同じメガネをしていた。

 この人は、いつも派手な人なのね……、と舞花は思った。

「僕だよ。僕ら、似ている気がするんだ」

 息子は親指を立てて、自分のことを指しながら言った。

「父さんに言われたよ。客に手を出すなよ、ってさ。そう言われると逆に……ああ、何でもない。とにかく、きみは女優で、僕は絵描き。同じ芸術が分野の、仲間ってわけさ」

 舞花は何か言い返そうと、その口を開きかけたが、いいセリフが思いつかなかったので、それで、黙って立っていた。

 息子は木箱の一つに腰掛けて、鉛筆を、一緒に持ってきていたカッターナイフで、削り始めた。

「昨日の続きを描きたいんだけど、座ってくれないかな……」

 鉛筆に目を落としたまま、彼が言った。

「お金は要らない。もしきみに、時間があったなら……」

 時間なら山ほどあるわ、と舞花は心の中で言った。

 そして、普段あまりしたことのない、暇つぶしというものを、この時、舞花はしてみようと決めた。

 座り心地の悪い、がたついた木箱に座ると、舞花はサングラスを取って彼を見た。

「私は、三鷹舞花。あなたの名前は?」

 彼は鉛筆の先で、イーゼルの看板を示しながら言った。

「かけるくん。字を書けるとか、絵を描けるとか、これはペンネームみたいなものだけど。もっと深い意味合いでは、橋を架ける、っていう解釈もあるんだけど、ちょっとややこしいから、かけるでいいよ。ただのかける。僕は、多田のオーナーの息子で、多田かけるだよ」

 そう説明しながら、かけるの口は笑っていた。

「ごめんね、きみのことはあまり、知らないんだ。テレビも見ないし。おまけに僕は、ついこの間まで、三年間パリで暮らしていたからね。じゃあ、お願いします」

 削り終わった鉛筆を左手に、スケッチブックを右手に抱え、かけるは小さくお辞儀した。

「喋っててもいいかい?」

 聞かれて、舞花は「どうぞ」と言った。無言で見つめられ続けるよりは、話しているほうが気が楽だった。

 それに、自分のことを知らない人と、気兼ねなく話ができるという、珍しい体験をしてみたかった。

 かけるは、悪い人じゃなさそうだ。服装は奇抜だけれど、芸能界ではもっと特殊な人たちを、舞花は大勢、この目にしてきた。個性については、人より理解はあるつもりだった。

「それで、芽が出なくて帰ってきたけど、相変わらず絵は好きなんだ。パリではまあ、勉強になったよ。似顔絵師には、カリカチュアっていって、客の顔を誇張する技法も、よく使われているようだけど……僕は絵を、写真のように描きたいのさ。風景画も、もちろん描くよ。ここからの眺めは……」

 かけるは手を止めて、一度、周りの景色に目を馳せた。またすぐに、鉛筆を紙に走らせる。

「住んでいたパリの、モンマルトルの丘に似ているんだ。あんなに華やいだ街じゃないんだけど、なんとなくそう思えるんだよ。どうしてかな……。吹く風は同じ、って、そんなふうに言っていた人もいたっけ……」

 かけるは舞花の顔とスケッチブック、交互に視線を巡らせながら、その時、少しだけ押し黙った。

 静かな丘の上で、ただ鉛筆の、カリカリ、シュッシュッ、ササササ……という、細やかな音だけが、舞花の耳に聞こえていた。

 心地よい風が、坂の下のほうから吹いてきて、舞花の青い服が揺れた。

 風の音に混じって小さく、「キレイだな……」と、かけるの呟いた声がした。

「当ててみせようか」

 かけるが、囁くような小声で言った。

「きみはスランプに陥っている女優だ。そしてここへは静養に来たんだ」

 舞花はさっと席を立った。不意に、歯がゆいものが心によぎった。

 かけるは手を止めて、立ち上がった舞花を見上げた。黒縁メガネを手で直す。

「行かないで。僕たちは同じだ。発揮しきれない才能を、一人、持て余しているんだよ」

「分かったようなこと言わないでよ」

 舞花は慣れた手つきで、サングラスを目にかけた。

「私は、人を探しに来たの。キミカは、ここへ来てくれるはずよ、絶対に……」

 言ってから、舞花はぱっと、口元に手を当てた。かけるは座ったまま首を傾げる。

「きみか? 誰だろう……。もしよかったら、僕も探すよ」

 それを聞いて、舞花はだんだん、おかしさが込み上げてきた。唐突に笑い出した舞花を、ポカンとした顔で、かけるは見ていた。

 舞花はサングラスをまた外して、浮いた涙を指で拭った。かけるに向かって、優しく言った。

「ごめんなさい、おかしくて……。でも、あなたには無理よ。大丈夫、きっとキミカは来てくれるから。心配してくれて、どうもありがとう」

「ああ……」

 よく分からないながらも、かけるは舞花に頷いた。

「笑ったらお腹空いちゃった。続きは、また今度でもいいかしら。スーパーに行かなきゃ。冷蔵庫が空っぽなの」

「うん、もちろん。僕はずっと、ここにいるから」

「じゃあね」

 サングラスをし直して、舞花はかけるに手を振った。

 かけるの眼差しが、ずっと見送ってくれているのを、舞花は背中で感じていた。

 才能を、持て余す……か。

 舞花はかけるの言葉を、歩きながら思い返した。

 物思いにふけりながら歩いていると、スーパーへは、あっという間に着いた気がする。

 入ってすぐの青果コーナーに、リンゴがたくさん売られていた。偶然だろうか。さっき、かけるが座っていた木箱と、同じ箱に入れられていた。

 今日もオレンジを食べようと、買い物かごに入れていたけど、それは元の棚に戻して、舞花は、リンゴを一つ手に取った。

 そのあと、店内を二周回ってみたけれど、要二の姿は、見られなかった。



 キッチンに立ち、ナイフでリンゴを切り分ける。

 一口食べてみて分かった。硬い……。もう少し、冷蔵庫で寝かせておこう。

 リンゴの断面を見て、舞花はふと思った。

 私もかけるも、同じなんだ……。才能を秘めた、若いリンゴ。

 きっと、これからだと思う。

 諦めるにはまだ、早いのよ。

 
 ギター  5 ギター


 今日は朝から、気分がよかった。

 舞花は部屋の掃除をした。カーテンを開け、絞った雑巾で窓も拭いた。何だか、すべてが懐かしく思えた。

 十五歳。あの頃の舞花は、ちょうど今と同じように、一人、安アパートに暮らしながら、芸能事務所へ通っていた。レッスンがお休みの日は、近くのスーパーでバイトもした。

 夢と希望に満ちあふれていた、当時の自分。

 掃除をしながら、舞花の頭に、これまでの軌跡が蘇ってきた。

 雑誌のモデルとして、プロのカメラマンに撮ってもらった写真。その時のメイクさんに紹介されて、出させてもらった、コスメのCM。今の監督に見出されたのは、その頃だった。

 初舞台。監督や共演者たちから学んだ、演じるということ。厳しさで知られていた監督に、舞花は何度も泣かされた。でもそのつど、演技に磨きがかけられる。楽しかった。

 監督とはそれ以来の、とても長い付き合いになる。彼の意図していることが、だいぶ分かってくるようになった。そう思っていた。それなのに……。

 監督はなぜ、私に、こんな役を演じさせようとするのだろう……。

 もらった台本は、頭では暗記した。けれど心では、上手く言えない、納得できない気持ちがあった。

 自分がここへ送られたわけを……しばらくの休業が、ただ与えられたわけではないのだと、舞花はもう分かっていた。

 おそらく監督は、初心を思い出させようとしたのではないか。一人、孤独にすることで、逃げ場のない、自分の心と向き合う時間を、作ってやりたかったのだろう。

 舞花はそれを実感していた。演技がしたい。早く、あの舞台に立ちたい。監督の書いたセリフを、胸を張って喋りたい。

 だけど、それにはまだ、気持ちの整理が必要で、飲み込むまでに、時間がかかる……。

 私はまるで、若手の新人……。振り出しに戻されたような状況だった。

 キミカのことを思ってみた。

 キミカは、とても自由な女性だ。塞ぎ込みがちな私とは、真逆の性格。そんな彼女の存在が、今の私には必要だった。

 彼女の気持ちを、私は知りたい。もし、ここにいたのなら、どう考え、どういった行動をとるのか……。

 どうしても、彼女には会わなければならない。キミカからしか学べないことが、私にはきっとあるはずだ。

 部屋のインターホンが鳴って、舞花は意識を引き戻された。

「ごめんください。お届け物です」

 玄関に青いつなぎを着た、宅配便のおじさんが一人、立っていた。

「こちらに受け取りのサイン、お願いします」

 舞花はハンコを持っていなかったので、そのおじさんが差し出したペンで、指示された箇所にサインした。

 色紙用の崩したサインではなくて、普通に、漢字で「三鷹」と書いた。

 分厚い封筒を舞花に手渡し、おじさんは「ありがとうございました」と言って、去ってゆく。

 その時、舞花ははっとした。

 私、サングラスをしてない。でも……、掃除のために、マスクを口につけていた。顔は半分隠れていたので、たぶん、誰かは分からなかっただろう。

 舞花はあえてそう思い、くよくよ考えないことにした。私がもしキミカなら……こんなミスに、悩んだりはしないはず。

 寝室の机の上に、封筒の中身を引き出した。

 一冊の厚い本と、小さなメモが入っていた。

 メモは、端に破った形跡があった。監督の手帳から切り取られたものだと分かったのは、書かれていた字の、右肩上がりの特徴を、舞花が覚えていたからだった。

 舞花はメモを、声に出して読んだ。

「作曲家に依頼していた曲が、やっと仕上がった。劇のラストに流す、短い歌だ。ハミングでいい」

 本を手に取って開く。黒い印字が、縦書きで連なる。監督の書いた台本だった。ぱっと見たところ、ト書きもセリフも、前と同じ。ただ、最後のほうに一ページだけ、楽譜が追加されている。

 タイトルは、発音の分からない外国語で、「L'oiseau bleu」と書かれていた。歌詞はなく、これを鼻歌のように流したいのだろう、と舞花は察した。

 練習しておけ、と、監督はこれを寄越したのだろうが、複雑に並んだオタマジャクシの五線譜を、舞花は上手く読み解けなかった。

 携帯があれば調べることができるのに……。舞花はもどかしく思いながら、本を持ったまま、部屋をウロウロ歩き回った。

 その時だった。急に、強い風が吹いてきて、窓のカーテンが大きく揺れた。

 頭の中に、どこかで聞いたことのあるような、印象的なセリフが浮かんだ。

「……吹く風は同じ……」

 誰が言ってたんだっけ……。

 窓に近づいた舞花は、何気なく外を見下ろして、それから、静かに微笑んだ。

 そうだ。あの人が話していた言葉だった。

 アパルトマンの前で、絵を描いていたかけるが、ちょうど真下に見えていた。



「ロワゾー・ブルーだね」

 かけるは舞花に台本を返しながら、曲のタイトルを教えてくれた。

「フランス語だよ。きみは尋ねるべき人を、ちゃんと知っているな」

 元パリジャンさ、と彼は言って、自分で笑った。

 そんな彼の、今日の服。左右で違うポケットの色。頭にかぶったキャスケット。個性的なのはもう分かっていたので、舞花はさほど気にしなかった。もはや、変わらないのは、メガネだけだ……と、間違い探しのような感覚で気づけたのが、舞花には少し嬉しかった。

「それ、どういう意味なの?」

 舞花の問う視線を避けつつ、かけるは俯きがちに微笑んで、横に小さく頭を振った。

「言ったらきみは、僕の前から去ってしまう気がするよ。困るな……僕は続けていたいのに」

 早速スケッチブックを開き、かけるは鉛筆を動かし始めた。舞花は外したサングラスを手に持ったまま、しばらくかけるの様子を見ていた。

 描く時は、塞がれるように見える、かけるの瞳。舞花を確認する時は、目と目が合ってしまいそうになる。けれど一秒にも満たない、対象と手元を往復させる、視線の速さ。

 描くことが、この人の情熱なんだ、と舞花は思う。私が演じたいという熱意を持っているように、彼も、その心に熱を持つ。そしてそれが、私には見える。

「口実は、バレそうなくらいが可愛いんだ」

 とかけるは、唇の端を、ほんの少し上げながら、舞花に言った。

「きみは女優さんなのに、お芝居が下手だね。僕に会いたいのなら、ウソなんかつかなくてもいいのに。僕は毎日、ここにいるから。きみも毎日、下りておいでよ」

 かけるが何を言ったのか、よく解からなかった舞花は、「え?」と言って、聞き返した。かけるは手を止めて、顔を上げた。

「ジョークだよ。こんな美人を前にして、口説かないって失礼だろう?」

「ねえ、待って。私があなたと話したいから、わざとフランス語を持ってきたって、そう思ったの?」

「説明すんなよ、恥ずかしいだろ」

 小さなことで、二人は急に、言い争いになってしまった。

「じゃなきゃ、きみ、なんで前と同じ服を着て、僕の前に立ってるんだい? 絵の続きを、僕に描かせてやりたかったんじゃないの?」

「このワンピースには、いろいろと、わけがあるのよ。勝手に誤解しないでよ」

「誤解させたのはきみのほうだよ。人をからかって楽しむのが、芸能人のお遊びってやつかい」

「違うわよ。ここでは私、ただ知り合いが、他に誰もいなかったから、だから、あなたに……」

 二人は顔を見合わせて、少し黙った。それから、どちらからともなく、無言のままで、笑顔になった。

 なんて子供じみたこと……。笑いながら、舞花は思った。こんなくだらないことでも、笑えるんだ。私たちって、バカみたいね。だけど何だか、平和だわ……。

「僕も演じているんだよ」

 と、かけるが、指先で鉛筆を回転させながら、小声で話した。

「絵描きという、明るいキャラクター像をね。普段は、こんなに喋らない。意外だって思うだろうな。たぶん……口数が多いのは、友好的に見せるための、はったりなんだ。でも、それでもいいよ。自分を騙せるんなら、人だって僕のことを、こういうやつなんだって、信じてくれるだろうしね」

 舞花は、台本をきつく握った。

「きっと世界中の誰もが、いいように、自分を偽って生きてるんだよ。だから、この世は騙し合いだ」

 そう言って笑うかけるが、舞花の目には大人びて見えた。子供だと思ったり、大人だと思ったり、やっぱりこの人は、不思議な人だ……掴みどころのない感じ。

 かけるの鉛筆が、回していた指から転がり、地面に落ちた。伸ばした手で拾い上げて、「芯が折れた」と、小さく呟く。

 舞花はさっきから、自分が強い力で台本を掴んでいることに、気がついた。鉛筆の先を触っていたかけるに、控えめに言う。

「実はもう一つ、聞きたいことがあって……。楽譜が読める人に、このメロディを教えてもらいたいんだけど……」

 折れた鉛筆とスケッチブックを、机代わりの木箱に置いて、かけるはポケットの一つから、携帯電話を取り出した。ワンプッシュで誰かに繋がり、かけるが喋る。

「こっちに、ギター持ってきて」

 ほどなくして、アパルトマンからオーナーの多田がやってきた。白に近い木目の、アコースティックギターを抱いていた。

「本当にきみは、質問をする相手のチョイスが、上手だね。父さんは昔、ギタリストだったんだ。この年になってもまだ、捨てきれずにいるんだよ。かっこいいぜ」

 息子からそう紹介されると、ギターを構えながら、オーナーは舞花に向き直って言った。

「ああ、三鷹様でしたか。演奏でしたら、お任せください。この一階、一号室に住んでいるので、お好きな時に、お声をかけてくだされば、すぐに飛んで行きますよ」

 元ギタリストの血が騒ぐのか、オーナーはそれを早く鳴らせたくて、ウズウズしているように見えた。

 一度、火がついた情熱というのは、そう簡単には消えないわね……と、そのギターを見つめながら、舞花は声には出さずに、密かに思った。

 
 カーテン  6 カーテン


 元気な子供たちの笑い声が、静かな午後の通りに響いた。

 舞花は覚えたてのメロディを、軽いハミングで続けながら、窓から、通りを見下ろした。

 いつもと同じ位置に座る、かけるが見える。水色のハンチングをかぶった後頭部。顔は、坂道のほうへ向いていた。

「一緒にやろう、お兄ちゃん」

 坂道で男の子が二人、サッカーボールを蹴り合っていた。かけるに声をかけている。

「絵なんか描いてないでさ!」

「きみたち、もう少し、こっちに上がってきてから、遊びなさい」

 かけるは、穏やかな声で注意した。男の子たちは、ボールを持って駆け上がってきた。

「ねえ、サッカーしようよ、えっとー……かけるくん!」

 置かれた看板の文字を見て、一人が言った。

「かけるくんは、絵しか描かないんだよ」

 と、素っ気なくかけるが教えると、「つまんないのー」と言って、二人の子供たちはまた、そこでボールを蹴り始めた。

 坂ではなく、平坦な場所で遊びだしたので、かけるは「よし」というように頷いて、スケッチブックに向き直った。

 舞花はハミングをやめ、開いた窓から、かけるの描く絵を覗いてみた。

 この三階からでは、はっきりとは見えなかったが、それは風景画のようだった。しばらく見ていると、かけるの顔が、何度も坂のほうへ向けられていて、どうやらそこからの景色を、彼が観察して描いているのだと、舞花には分かった。

「バタン!」

 と、何の前触れもなく、隣の部屋の窓が、いきなり開いた音がした。

 舞花はその場で身を固くした。意識をそちらに集中させる。少し離れてはいるけれど、隣室の誰かが、窓辺に立っているのが、気配で分かった。

 音を立てないように、そっと舞花は窓を閉めた。前を向いたまま、ゆっくりと後ずさりし、壁に背をつけてから、ようやくホッと息を吐いた。

 ここは、自分の家じゃない。舞花は思った。不特定多数の人が入居する、アパルトマンだ。隣人がどんな人なのか、何も知らない……。

 見えない相手への不安を感じた。さっきまで、あんなに気持ちよく歌っていたのに。今は呼吸すら、息苦しく思えた。

 舞花は寝室を出て、短い廊下を歩き、キッチンへと逃げた。



 たまっていた食器を洗い終えると、舞花は冷蔵庫を開けた。

 今晩は何を食べよう……。と、いうよりも、残った食材で、何の料理を作ろうか。

 これまでの舞花は、外食ばかりで、自ら作るという行為を、あまりしてこなかった。忙しくて、時間が取れなかったせいもある。

 料理のレパートリーが頭にないので、冷蔵庫の残り物だけでは、何も作れる気がしなかった。

 舞花は冷蔵庫を閉めて、棚の上に置いていた財布を、片手に掴んだ。



 アパルトマンの入り口で、白い外壁に手をついて、そっと上をうかがってみた。

 クリーム色の窓枠が、均等に並んでいる。少しサングラスをずらして、自分の部屋の、隣の窓をチェックした。

 閉まっている。黒っぽいカーテンが、吹いてきた風に揺れなかった。

「まるでスパイだ」

 と、声がした。舞花はサングラスを取って、声の主、かけるのほうへ歩み寄った。

 かけるは木箱に座って、相変わらず絵を描いていた。片足で貧乏揺すりをしている。よく見ると、はいているスニーカーの生地が、左右で色が違っていた。

「早くしないと暮れてしまうよ……」

 かけるは焦っているように、鉛筆を持つ手を激しく振っていたが、急にそれをピタッと止めて、舞花に向かって、声を発した。

「ゲームオーバー。……もう線が見えない。これ以上やると、目を酷使するだけだ」

 そして、小刻みに揺らしていた足も止めた。

「お疲れ様」

 と、舞花が言った。かけるはゆっくり頷いた。

 夕焼けが空に広がっていた。赤く染まっていた雲が、風に真横に流されてゆく。長い髪が後ろからあおられ、頬に当たるので、舞花は風に、顔を向けた。

「それで、スパイの役は上手くできそう?」

 かけるのジョークに、舞花は振り返らずに微笑んだ。

「ここに座っているとね……後ろで窓が、開く音が聞こえるんだ」

 かけるはスケッチブックを閉じ、木箱に置いてから言った。

「時々だけど、僕の絵を、そこからじっと、眺めている人がいるんだ。僕は気づかないふりをして、絵を描き続ける。その人は、ずっと前から、きみの隣に住んでいて、滅多に外出もしないんだ。って、父さんが言ってたよ。僕もまだ、ちゃんと姿を見たことがない。そして、その人はたぶん、この国の人じゃないんだ」

 舞花は振り返って、黒いカーテンの閉まっている窓に、視線を上げた。

「名前の響きからすると、フランス人じゃないかって、僕は思ってる」

 かけるは立ち上がり、舞花の隣に並ぶと、同じようにその窓を見上げた。

「だから、何かあったら、僕が話をつけるから……」

 その続きを、かけるは口にしなかった。舞花はかけるの顔を見た。心配しなくていい、と、メガネの奥で彼の瞳が、そう語ってくれているように、舞花には思えた。

「いろんな人がいるからね」

 とかけるが言い、舞花は頷く。

「いろんな人の人生が、カーテンの裏には隠れているのさ」

 かけるがまっすぐな目で見つめてくるので、舞花はさり気なく、その目を伏せた。

「きみも、探してた人が見つかれば、ここを出ていくのかな……」

 かけるも舞花から目をそらし、木箱の上に散らばった、たくさんの鉛筆を手に集めながら、話し続けた。

「こうして友達のように話しているけど、そういえばきみは、手の届かない人だったっけ。結局は僕は、ファンの一人にしか過ぎないんだ」

 何と言っていいか、舞花は言葉が出なかった。こんな時、私にセリフがあったらいいのに、と舞花は思った。彼のほうは自然と、気の利いた言い回しができている。

 スケッチブックを脇に挟んで、かけるは、黙っている舞花に質問をした。

「どこか行くの? その探している人に、会いに行くのかな」

 舞花は首を横に振った。それから、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、かけるにこう言ってみた。

「キミカ以外にも、もう一人、会いたい人がいるの」

 鉛筆とスケッチブックを抱えたまま、かけるは少しだけ近寄ってきた。舞花の声に耳をすます。

「その人は、要二という人なんだけど、スーパーで働いている店員さんなの。このアパルトマンを出る前に、もう一度、その人に会ってみたいのよ……」

 かけるは丸い目をして、「要二……」と呟いた。「そう、要二」と、舞花はもう一度言って、かけるに教えた。

「彼ね、モデルのようにキレイな顔をした人だった。私の、ただの片想いだけど」

「それ、知ってるよ……」

 と、かけるが、不思議そうな顔をした。

「というか、僕の親友だよ。なんだ、もっと早く言ってくれればいいのに……。彼は毎日、仕事は夜からやるんだよ。そうだな……七時以降に店に行けば、きっと会えるよ。へぇ……そうだったのか……」

 かけるは、嬉しそうな笑顔を見せた。両手に荷物を持ったまま、そばの木箱に腰を下ろす。

「驚いたよ。だって、彼は子供の頃から、全然目立たない、引っ込み思案なやつだったんだ。同級生にさえも、敬語で話すぐらいのね。自分の好きなもの以外には、何にも興味を示さないような、周りから見れば、ちょっと変わった子供だった。それでも……幼馴染みっていうのかな。僕はよく、要二と一緒に遊んだよ。さっき、ここでサッカーをしていた少年たちのように、僕らもここで、絵を描いたりね……」

 そう教えてくれるかけるの瞳は、どこか遠くの場所へと向けられているように、舞花には見えた。けれど、少し寂しそうな顔をして、ポツリと言った。

「要二、喜ぶと思うよ」

 かけるは、自分の色違いのスニーカーを見つめていた。メガネのレンズに、赤い光が反射した。

「さてと。それじゃあ今日は、これでお開きにしようかな。また来てくださいね、マダム。今度はもっと、明るい時間帯に」

「ええ、ありがとう」

 屈託なく笑うかけるに、舞花もつられて笑い返した。

 アパルトマンへ帰ってゆくその背中は、何だか少し疲れているような、彼らしくない……、そんな印象を、舞花は受けた。

 彼の住む部屋の、そのカーテンの向こう側にも……きっと私の知らない、彼の姿が隠れているんだ。

 舞花は、かけるのことを考えつつ、財布を片手に持ったまま、ゆっくりとした足取りで、自分の部屋へと戻って行った。

 
 階段  7 階段


 毎日変わることのない、穏やかな日々。

 朝起きて、青いワンピースに着替える。

 軽い朝食を取り、歯を磨く。鏡の前で、メイクする。

 洗濯機を回し、洗濯物を干す。

 それから、台本を開いて、何度も黙読を繰り返す……。

 お昼。料理をする。食べて、食器を洗う。歯を磨く。

 寝室の窓から、かけるの様子をうかがってみる。お客さんがいなければ、下りて行って、会話を交わす。飽きたり、誰かが来たりしたら、自室へ戻る。

 洗濯物を取り込んで、たたむ。

 サングラスと財布を持って、アパルトマンから、坂を下ってスーパーへ。

 働いている要二を、遠くから、それとなく見る……。

 帰って、夕食を作って、食べて……食器を洗って、歯を磨き、お風呂へ入る。

 顔と、足のマッサージ。

 ベッドに入り、何を考えるでもなく、ただ眠りにつく。

 大体は、この一連の繰り返し。それが、舞花のルーティンになっていた。



 ある昼下がり、アパルトマンのいつもの場所で、

「しばらく、寝かせようと思ってる」

 と、かけるが言った。まだ仕上がっていない舞花の似顔絵を、かけるは「中断する」ということを、舞花本人に伝えてきた。

「僕は似顔絵に、こんなに時間をかけるタイプじゃないんだよ。だけどこの絵だけは、どうしても力作にしたくてさ。ここに、何か閃きを足したいんだ。それには一度、この絵から離れて、客観的に見られるようになるための時間が、僕には必要だと思うんだ。だから、待っていてくれるかい?」

 舞花は頷いてから、かけるに優しく微笑んで見せた。

「ええ、どうぞ。時間のことは、気にしなくていいの。私にも、あなたの言いたいことは、すごくよく分かる……。大切なのは、自分が納得のゆく作品を作る、ってことでしょ?」

「そうだよ」

 と、かけるも頷いて同意した。

「いい作品は、絵でも、音楽でも……何であれ、作者が死んでしまったとしても、この世に残るものだからね。人の心に住み着くものだ。僕たち、ものを作る人間には、そういった、大きな責任があるんだよ……。自分が、正しいと思えるものを、なおかつ、誰もまだ見たことのないものを、ゼロから生み出さなくちゃいけないんだ。……なんてね。今はまだ、独りよがりなものだけど」

「あなたって、時々深いことを、平然とした顔で言うのね……」

 そうして、舞花のルーティンの中から、かけるという一部が消えた。



 スーパーの陳列棚から、何本ものビールの缶が、転がり落ちた。

 背の高い、黒いシャツを着た男が、酔っているのか、棚にもたれかかったのだ。

 大きな音に気を取られ、舞花はレジの前で、要二が差し出していたお釣りを、取りこぼしそうになった。

 要二は、いつかのように舞花の手を掴み、もう一方の手で、お釣りを手の平にのせてくれた。

 そして何も言わずに、酔っ払いの男のそばに近寄って、その男の顔を見るのでもなく、何事もなかったかのように、転がった缶を拾い始めた。

 黒いシャツの男は、しゃっくりをしながら、店を出て行ってしまった。

 まるで、心がここにないみたい……。黙々と作業をする要二の姿に、舞花は思った。でも、美しい……。もしも私がスカウトマンだったなら、絶対に彼をスターにしたいと思っただろう。

 彼は、普段は何をしている人なんだろう。どんなものが好きなのかしら。恋人は、いるのかな……。

 そんなことを考えながら、舞花が帰り道を歩いていると、前方から、何だか奇妙な声が聞こえてきた。

 歩き続けると、声は次第に大きくなった。そしてそれが、先ほどの酔っ払いの男が、しゃっくりをしている声だと分かった。

 舞花は接近しすぎないように、なるべく小さな歩幅で歩いた。

 彼が街灯の下を通過するたび、伸びた長めの金髪が、淡い光を放って見えた。

 もしかして……、舞花は思った。だけど、違うかもしれない……でもこれは、それを確かめるチャンスなのかも。

 舞花はアパルトマンへの坂を、男の後ろから歩み続けた。

 男はフラつきながら、アパルトマンの前へ来た。しかし入り口へは向かわずに、建物の裏手へと回って行った。苦しそうに出していたしゃっくりは、もう止まっているようだった。

 舞花は周囲を見回した。誰もいない。男は尾行されていることに、気がついている様子もない。

 舞花はサングラスを取った。見失わないよう、注意深く目を凝らして、追跡を続ける。

 アパルトマンの裏口から、白い明かりが漏れていた。男は眩しさに目を擦りながら、それでも足を止めることなく、光の中へと入って行った。

 コツン、……コツン、と、男の不規則な足音が響く。舞花は、足音のする方向へ顔を上げた。そこには、四角いらせん階段が、ずっと上まで延びていた。

 蛍光灯の明かりが、男の長い影を一段、一段と、滑らせてゆく。舞花は、音を立てないよう、はいていた靴を脱ぎ、荷物を持つ反対の手に抱えた。

 手すりは、錆びた色の鉄のようで、つる草の装飾が施されている。古いけれど、味がある。この場所だけが、どこかノスタルジックな空間に思えた。

 こんなところがあったなんて……。普段はエレベーターを使っていたので、舞花は、この階段の存在を知らなかった。

 冷たい感触を、足の裏に感じながら、一階から、二階へ上る。角を折り曲がった所の踊り場で、舞花の目は、あるものに釘付けとなった。

 それは、壁の中央に描かれた、壮大な絵画だった。

 コバルトブルーの、海の中。揺れる海藻と魚たち。白い砂底に、光の筋と、波の泡――。

 舞花は瞬きをするのも忘れ、見入ってしまった。

 なんてキレイなの……まるで、海底に開いた窓のよう……。

 一歩近づくと、つま先に何かが触れた。見れば、足もとにはたくさんの丸い缶が、乱雑に転がっていた。まだ乾ききっていないペンキが、缶の中には残っているものもあった。

 不意に我に返って、舞花は先ほどの男を追いかけようと、駆け足で階段を上って行った。

 三階まで上がってきた時、廊下の中腹で、部屋の扉が「バタン」と閉まるのを、舞花は見逃さなかった。

 やっぱり……そうだった。舞花は確信した。

 彼は、自分の隣の部屋に住む、謎の外国人だった。



 翌日の正午過ぎ。

 舞花はサングラスもせず、部屋を出て、あのらせん階段へと向かった。

 一階と二階の間の、踊り場の側面。描かれた海の絵を、舞花はもう一度目にしたかった。

 しかし、その絵の前にはすでに、かけるが一人立っていた。

 頭に、赤いバンダナをかぶるように巻いている。服装は、ペンキに汚れた、藍色のオーバーオール。メガネの奥の目は、絵を睨んでいるかのように、鋭かった。

 舞花はそっと靴を脱ぐと、彼と絵が見える位置の段に座り、気配を殺して、様子をうかがった。

 かけるは、ペンキの缶を右手に持ち、左手では細い筆を持って、そこに微動だにせず、立っていた。

 舞花はかけるの横顔を、鉄の手すりにもたれ掛かりながら、じっと見ていた。

 何分経っただろう。静止画のようなその光景からは、時間の感覚が掴めなかった。

 最初は冷えていた手すりの温度が、舞花が触れ続けていた体温で、そこだけ温かくなっていた。

 舞花はゆっくりと体を起こし、かけるの邪魔にならないように、靴を手に持ったまま、三階へと戻ることにした。

 階段を上がる途中で、最後にもう一度だけ、身をかがめて、かけるの姿を眺めてみた。

 かけるは、同じ体勢を維持し続けていた。しかしその目は、何か考え事をしているように、ぎゅっときつく閉じられていた。

 舞花は、廊下に出てから靴をはき、少し歩いてから、足を止めた。

 芸術が生まれる過程に、立ち会えた気がした。

 ほとんどの人が利用しない、古い階段の途中で、彼の頭の中の想像が、現実に、一つの絵として現れてゆく……。

 そんな奇跡のような工程を、彼は、たった一人で行っている。とても孤独な芸術家。

 そして、彼が言っていたように、それはいつの日かきっと、多くの人の、心の中に……。

 そうなって欲しい、と陰ながら願いつつ、舞花はまた前へと、廊下を進み続けた。

 
 テイクアウト  8 エクレア


 窓から外の景色を見ていた。

 小鳥が地面を跳ねている。かけるのいない木箱の上を、行ったり来たり。

 暖かな日差しが、眠気を誘う。

 舞花は、目だけを動かして、壁の時計の数字を読んだ。

 午後三時。

 九十度に開いた針を見ただけで、急に甘いものが食べたくなった。

 頭の中に、クッキー、ドーナツ、アイスクリームなど、次から次へと、お菓子の映像が流れてゆく。

 舞花は椅子から立ち上がった。

 窓に顔を近づけて、つま先立ちになり、ちょっとでも高い位置から、遠くの建物を確認してみた。

 赤い瓦屋根の、喫茶店。

 帽子とサングラス、財布を持って、舞花は弾むように部屋を出た。



 赤く見えていた瓦屋根は、近くで見ると、渋いオレンジの色味を帯びていた。

 店先に並ぶ、プランターに植えられた花。その間から見えるガラス窓に、白いスプレーで、「洋菓子店」という文字が、淡くペイントされていた。

 喫茶店だと思っていたが、中にイートインスペースはなく、その店はテイクアウト専門の、小さなケーキ屋さんだった。

 舞花は女性の店員に、一言も声を発することなく、ショーケースの外から素早く商品を選ぶと、指を差して注文した。

「はい、エクレアですね。今日は暖かいので、保冷剤を入れておきますね。お早目にお召し上がりください」

 店員はそう言いながら、包装されたエクレアを、ビニール袋へ、四角い保冷剤と一緒に入れた。

 舞花の差し出したお金を受け取り、「ありがとうございました。またお越しください」と言って、にっこり微笑む。

 舞花はビニール袋を手に、ガラスドアを開けて外へ出た。

 若い女の子たちが二人、店の前に自転車を停めていた。舞花がそばを通り過ぎると、彼女たちの囁き合う声が、後ろで聞こえた。

「えっ、今の似てたよね……?」

「まさか、こんなとこにいるわけないじゃん」

「そっかー。っていうかマイカ、最近テレビで見ないよね……」

「ねえ、今日何食べる?」

 笑い声を上げながら、二人は店の中へと入って行った。



 白線の上を歩きながら、舞花は小さく口笛を吹いた。すっかり覚えた、あのメロディ。終わりまでくると、また始めから。

 人の少ない、午後の街。

 舞花はこの街に暮らしている自分を、想像してみた。

 それはとても、穏やかな毎日。だけど少しだけ……退屈な日々。

 白線が十字路で途切れ、舞花はその場で立ち止まった。

 前方に見えていたバス停に、青色のバスが来て停車した。ドアを開けて、アイドリングしている。誰も降りず、乗りもしなかった。またドアが閉まり、行ってしまう。

 舞花はずっと立っていた。ある思いが、胸の奥でうずいていた。

 それは、今すぐバスに乗って、あの輝かしい世界へ帰りたい、という思いだった。

 バスが見えなくなっても、舞花はそこから動けなかった。

 手に下げていた袋の中の、保冷剤の冷たさが、舞花の太ももに、スカートの上から伝わってきた。

 エクレアが溶けてしまう。上にかけられている甘いチョコレートが、ドロドロになって、袋の中で汚れてしまう。

 そんなイメージを見た。

 舞花はまた歩き出した。十字路を横断して、再び白線の上を歩き始める。

 口笛は気持ちに反して、静かに、伸びやかに、ただ美しい音色を繰り返した。

 
 お手紙  9 手紙


 ステンレス製のドアポストに、一通の手紙が差し込まれているのが、内側から見えた。

 いつからあったんだろう……。このところ、舞花は外出していなかった。買い物もまとめ買いをしていたし、手紙が届いていることなんて、まったく気づいていなかった。

 今日は、薄くなってきた財布に紙幣を補充するために、郵便局へ行くと決めて、部屋を出ようとしたところだった。

 ポストから手紙を取って、部屋へと戻る。封筒は、赤、青、白、のラインの入った、エアメールのようなデザインだった。表には、住所も郵便番号も書かれていない。ただ、「三鷹舞花様」とだけ、細いペンの字で、宛名が横書きに記されていた。差出人の名前は、表にも裏にも、どこにもなかった。

 手紙を封筒の上から触ってみる。薄い紙の感触しかしない。悪質なファンレターでもないだろう。舞花はそう考え、封筒の端にハサミを入れた。

 封筒から引き出した、三つ折りにされた便箋を開き、目を通す。羊皮紙を模した、素朴な色合いの便箋には、宛名と同じく細い字で、こう書かれていた。

 ごきげんよう、舞花様。いかがお過ごしでしょうか。最近、あなたのお姿を見られなくなり、会えない時間が僕に、よりあなたを思い出させようとしています。僕の筆は止まったままです。煮詰まっている僕の気晴らしに、助け船を出すつもりで、どうかお付き合いくだされば光栄です。この月曜の午後二時に、郵便局前のバス停にいます。もしよろしければ、同封したチケットをご持参ください。

 舞花は、封筒の中に残っていた一枚のチケットを、顔の高さまで持ち上げて、じっと見つめた。

「流星の、サーカス団……」

 印刷された字を読んだ。派手な衣装とメイクで、満面の笑みを見せる団員たちが、チケットには映っていた。

 はっとして、封筒の消印を確認しようとしたが、ハンコが押された跡はなかった。切手さえも貼られていない。この手紙は、直接ポストに入れられたようだった。

 壁の時計は、一時二十分を指している。けれど、今日が何曜日なのか、舞花にはまったく分からなかった。新聞も、テレビも、携帯も、必要ないと思うものは、一切持たないと決めて、ここへ来たのだ。

 舞花はチケットを財布にしまった。たとえ今日が月曜でなくても、また、火曜だったとしても、舞花が郵便局へ行くのは、変わらなかった。だから、無駄足になることはない。

 サングラスをして部屋を出た。廊下を歩いていたが、ふと思い直して、また部屋へと戻った。

 青いワンピースを脱いで、初日に着てきた服を着る。つばの広い帽子をかぶり、サングラスを外し、代わりにマスクで顔を隠した。

 予感がした。それは、今日なのだと。



 まだ時間が早いのか、バス停には誰も待っていなかった。

 舞花は郵便局へ入り、ATMからお金を下ろして、財布に詰めた。

 自動ドアから外へ出ると、たった今出現したかのように、かけるの姿がそこにはあった。

 緑のキャップに、ネコのキャラクターがついたTシャツ。色落ちしたジーンズと、メーカーのロゴマークが入ったスニーカー。いつものような、奇抜さがない。とてもラフな格好に見えた。

「よかった。投かんしたあとで気づいたんだよ、僕の名前を書いていなかった、ってね」

「あなただって、文面から分かったわ。でも、どうしてサーカスなの? バスで行くほど、遠い場所だし」

「それはね……」

 かけるはキャップを目深にかぶり、少し恥ずかしそうに、舞花から目を外して言った。

「最初は、映画館にしようと思ってたんだけど、きみが、仕事のことを思い出すといけない、と気づいてね。たとえば、スクリーンに知り合いが映ってたら、冷めるだろう? それでさ」

「優しいのね」

「そう。週末じゃなく、人の少ない月曜にしたのもね……。今日は僕も、絵のことから少し離れて、休日のデートを楽しもうと思ってる。ちょっとの間、きみを独り占めする気でいるのさ。きみがここに、来てくれたからね」

 久しぶりに見るかけるの笑顔に、気持ちがほぐれていくような温かさを、舞花は感じた。それは、恋や愛とはまた違う……孤独な寂しさを、慰めてくれるような笑みだった。

「だけどこんなこと、監督やマネージャーに、もし知られたら……」

「二人だけの秘密にしよう。きみとのことは、僕は父さんや友達にさえ、誰にも話していないんだ」

 舞花は、要二のことが頭によぎった。彼は、私の素性を何も知らない。好意を寄せていることも、かけるは告げ口せずにいてくれた……。

「時々、刺激を与えて、流れを変えてやらないと、心はどんどん、濁っていくやつで……えっと、何だったっけ」

 かけるは、後ろ頭を片手でかいた。

「なんか、いいたとえを用意してたんだけど、忘れちゃった。まあいいや。今さえ、僕は楽しめれば、それで……」

 会話の途中で、バスが来た。

 かけるが乗り込む。そのシャツのバックプリントに、自分より大きな魚を口にくわえた、ネズミのシルエットが描かれているのを、舞花は目にした。

 ネコとネズミか……。舞花は笑った。休みの日だって決めたとしても、やっぱりかけるは、かけるなんだ。非凡で、芸術家気質の、個性的なアーティスト。

 バスにはお婆さんが一人、運転席のすぐ後ろに乗っているだけだった。二人は最後尾の席に座った。バスの扉が閉まりかけたギリギリで、二十歳くらいの、若い男の子が乗ってきた。舞花は、マスクを顔に、そっとかけ直した。

 バスが音を立てて動き始めると、舞花はスカートのポケットを、上から軽く叩いて、かけるに小声で言った。

「ここに、今月を乗り切る額を、下ろしてきたの」

「大丈夫、僕が守ってあげるよ」

「それでもう、今後はいっさい、買い出しをするぐらいしか、外出することはないと思う」

「……つまり、今月、残り数日しか、きみはアパルトマンには、いないってことかい?」

「ええ。キミカが見つかっても、見つからなくても、私は今月末で、あのアパルトマンを出ていくの」

 かけるは、大きな窓に目を向けて、流れる景色を眺めていた。メガネの黒い縁に、陽の光が映り、眩しそうに目を細めていたが、それでも外を見続けていた。

「僕は、絵を描き続けるだろうな。そしてこのまま、今の道が変わらなければ、オーナーの座を引き継いで、あのアパルトマンの一室に、ずっと……」

 揺れるバスの中で、舞花とかけるは、特に話をすることもなく、ただ隣で、肩を並べて座っていた。

 バスは各駅に停車しながら、何人かの乗客を運び、また降ろしていった。忙しそうに乗り降りをする人たちとは反対で、バスに留まり続ける二人の姿は、一つのオブジェのようだった。



 サーカスのテント小屋は、大きなデパートの横の、広い駐車場を占拠したように、堂々とした佇まいで開設されていた。

 赤と白の、縦ストライプの大テント。澄んだ青空によく映える。まるでキャンディの包み紙のような、鮮やかで、くっきりとした幕の柄。上部には、「流星座・Shooting Star」と、踊るようなフォントで書かれた、巨大な看板がのっていた。

 並んだ入り口で順番が来ると、係員が、渡したチケットをミシン目から切り取って、また半券を手に戻してくれた。

 舞花とかけるは、半券に記載された番号の、自分たちの指定席を探しながら、テントの中を歩いて行った。

 テントの内幕は、夜のとばりを思わせる、濃い紫色だった。しかしそこには、淡く光る小さな粒が、無数に貼り付けられていた。よく見ると、それは均等に散りばめられた、蛍光塗料の星だった。

 席は、円形のステージを取り囲むように並んでいた。数席ごとに、通路で分けられている。二人の席は、入り口から一番離れた場所だった。かけるは、自分が盾となって、隣の客から隠せるように、通路側の席へ、舞花を座らせてくれた。

 薄闇の中で、舞花は帽子とマスクを外した。

 ざわめく群衆の中、静かに、太鼓の音色が響き始めた。それはだんだん大きく、テンポも速くなってきて、お腹に響くまでの音量となり、そして唐突に、止まってしまった。

 しんとした会場に、突然、一本のスポットライトが注がれ、ステージ中央を細く照らした。長いシルクハットをかぶった、燕尾服の男性が、ライトの下に立っている。彼はカールした口髭を指先で摘み、整えた。蝶ネクタイを直しながら、もったいぶったように、一つ咳払いをし、それから、持っていたステッキを高くかかげて、澄んだ声を張り上げた。

「レディースアンドジェントルメン! 流星のサーカス小屋へ、ようこそ!」

 団長らしきその人は、ここで二ヶ月間公演をすること、そして携帯や、カメラのフラッシュをたかないことなど、小さな注意事項を、大袈裟な身振り手振りで説明し、客の笑いを取っていた。

 その後、スポットライトが消え、全体が明るく照らし出された時には、団長はまるで手品のように、ステージ上から姿を消していた。そうして、サーカスは始まったのだった。

 美しくもどこか物悲しい、不思議な音色の音楽とともに、さまざまなアクロバティックなショーが繰り広げられた。

 空中ブランコが、大きく揺れ動く。色とりどりの衣装を着た男たちが、軽やかに飛び移ってゆく。次から次へと、また、逆の方向へも。

 スポットライトの中の綱渡り。華奢な女性が、スパンコールのドレスを光らせ、たゆむロープをすり足で進む。

 動物たちのショーもあった。ステージと客席の境に、厚い金属の格子が張り巡らされ、空間を二層に遮断した中で、行われた。

 調教師がムチを振り鳴らすと、たてがみの長いライオンが、障害物を飛び越えたり、リズムに合わせて、歌うように吠えたり、多才な芸を見せつける。

 立てられた丸い輪っかに、火が放たれる。何匹ものトラが、連続で、燃える輪くぐりを披露する。息を飲んで見守る人々。

 小柄なゾウ使いと、大きなゾウの、器用な二足歩行の行進。それには笑い声と、盛大な拍手が沸き上がった。

 最後の演目は、ピエロの親子によるジャグリングだった。「我らは代々、道化師一家」と名乗る父親と、まだ未熟な腕の、小さな息子。頬に涙のペイントをして、一輪車にまたがり、光るボールでお手玉をする。父親は、俊敏な動きでステージを移動し、回すボールの数も増やしていくが、息子はなかなか、上手くできない。取り落としたボールを、父親は拾いながら息子に言う。

「跡継ぎよ、できなければ引退だ。さあ、初めから。私をガッカリさせないでおくれ」

 息子は特訓を積んで上達してゆき、ついには父親と同じ数のボールを、一輪車にも乗りながら、立派に回せるようになっていた。しかしこれは演出であり、息子役の彼は、最初はできない演技をしていた、ということになる。

 場面が暗転し、ジャグリングのボールだけが光を見せた。高く投げられるたび、宙に光の帯を残し、それはまるで、いくつもの流れ星のようだった。さあ、星に願いを込めて。いつか叶う、その日まで……。そういったストーリー性を見せながら、このサーカスが終わる時、拍手喝采の中で、かけるは言った。

「あの子には、選択肢の自由がなかった。僕たちは、道を選ぶことが許されている。それは幸せなことだけど、その分、迷子にもなるだろう。考え方一つで、ネガティブになったり、ポジティブにもなったり、いろいろと、考えさせられるショーだったよ」

 その瞳が潤んでいることに、舞花は気づいた。

「ねえ……泣いているの?」

「いいんだ。泣かせてくれ」

 かけるの頬に、一滴の雫が流れた。ピエロのペイントと、同じように。



 夜が降りてくるのが、帰りのバスの窓から見えた。青紫のグラデーションが、濃く、深くなる。

 乗客のいないバスの中で、舞花は帽子もマスクも外し、窓際の壁にもたれ掛かりながら、隣に座るかけるに言った。

「思い出したことがあるの……。演じるということは、見ている人に、感動を与えられるという、とても素晴らしいことだった。昔ね、ファンの女の子から、ある手紙をもらったことがあるんだけど……そこには、こう書いてあったの。……あなたを見ている間は、他の嫌なことなど、すべて忘れていられるんだ、って」

 かけるは、舞花の横顔を、静かな眼差しで見つめていた。それから一言、「うん」と言って、頷いた。

「連れてきてくれて、ありがとう。今日のことは、私、絶対に忘れないと思う。だって今、心が澄んでいるって、分かるもの」

 自分の中で、何かが変わってゆくのを、舞花は感じた。それはたとえて言うならば、曇り空が晴れ渡り、星の光が見えてきたような、すっきりとした清々しさだった。

 
 ワイングラス  10 グラス


 キッチンの台の上に、透明な細いグラスを二つ、並べた。

 赤いワインを、同じ量だけ注ぎ込む。

「出逢えた記念に、乾杯しよう。二人の愛に、赤い、血潮のようなこのワイン」

 言いながら、舞花はグラスを一つ持ち上げると、隣のグラスに軽く打ち付けた。

 それから一口、のどに流し込んでから、言った。

「いつまでも一緒にいておくれ、キミカ。きみは僕の生きる希望。永遠の夢」

 舞花はグラスを台に置き、少し横に移動して、立ち位置を変えた。それからわずかに間を置いて、声を震わせながら言った。

「いいえ、私は誰のものにもならないの。この心は底なしのように深く、一つの愛では、決して満たされることはない。私は、私自身の幸せを探して、世界中を巡るでしょう。留まり続けるのは、あなたの心の中にだけ……」

 舞花はグラスに背を向けた。大きくため息をつく。「なんて高慢なの、キミカって人は……」と、小声で吐き捨てるように言った。

 キッチンの台に、背中を押し付けたまま、座り込んだ。

 部屋は、音もなく静か……。動いているのは、時計の針と、私だけ……。

 いや、違う。ポタ、ポタ……、と、何かが落ちる音がした。

 重い腰を上げ、ゆっくりと立ち上がると、キッチンの流しのほうを見た。蛇口から、水が滴っているのかと思った。が、違っていた。

 舞花は台に両手をついて、目を強く閉じ、俯いた。

 邪魔をしないで。集中できない……。

 ポタ、ポタ……音が耳から、頭の中へ反響している。舞花はまぶたを開けた。裸足で廊下を歩いて、音のするほうへゆく。

 お風呂場だった。シャワーの先端から、丸い水が一粒ずつ生まれ、床のタイルに落ちて弾ける。

 下を向いたシャワーの姿が、舞花の目には、まるでうな垂れているように見えた。



 一階、一号室のチャイムを鳴らすと、ポロシャツに短パン姿のオーナーが、電話をしながら姿を見せた。大きな手を広げ、「待って」、と言うようにジェスチャーしたあと、

「おお、それじゃあな。あとでかけ直すよ」

 電話の相手に喋ってから、それを切ってポケットにしまった。

「どうかなさいましたか、三鷹様。また、お歌の伴奏のお誘いでしょうか?」

 やけに丁寧な言葉で話してくるオーナーに、舞花は思わず笑ってしまいそうになった。けれどポーカーフェイスは崩さずに、短く簡潔に言った。

「シャワーの水漏れらしいの。修理をお願いしたいのですが」

「分かりました。すみません、もうかなり古い建物なので、きっとガタがきているのでしょう。ちょっと確認させていただきます。自分で直せるような状態でしたら、業者の方はお呼びしなくてもいいかもしれません。いくつか道具を用意してから向かいますので、お部屋のほうで待っていてくださいますか」

 オーナーは自分の腕時計に目を落とした。

「あ、今少し、お時間よろしいですか?」

 聞かれて、舞花は一瞬ためらったが、「ええ」と言って、頷いた。それを見て、オーナーも頷いた。そして周りに誰もいないことを、首を回して確かめたあと、内緒話でもするかのように、声をひそめて話し出した。

「実は、先ほどの電話の相手からなのですが……何と言いますか、その……あなたが彼女に会えたかどうか、彼が心配していましてね。私の友人の、監督をやっている男が、ですね。来月あなたが、自分の元へ帰ってこない、ということも想定して、代役の役者を、候補に選んでおかねばならない、と、こう言うんですよ。私は、一ヶ月は待つときみが決めたのだから、そこは信じて待つべきだ、とそう言ってやりましてね。私も、夢を持つ人間でしたから、若い可能性を、大人の勝手な都合なんかで、摘み取りたくはないんですね。だから、そう言ったんですが……それで、よかったでしょうか?」

 舞花はオーナーの目をまっすぐ見据えたままで、数秒間、黙って考えた。そして、自分でも感心するほど、冷静に声が出た。

「はい、大丈夫です。私に代役なんて、必要ありません。多田さんの思いにも応えられるよう、励みたいと思います」

「それを聞いて安心しました」

 にこやかに微笑みながら、オーナーは続けた。

「うちは、丘の上に建つアパルトマンですから、家賃も安いですし、多いのですよ……働きながら、夢を追う人は。その中には、簡単に諦めてしまうバカもいる。しかし私は、頑張って夢を見続けようとする人を、ここから応援したいんです。……あ、それには、部屋のメンテナンスも、ちゃんとしておかなければなりませんね」

 オーナーは、「すぐ行きますから」と言って、扉を閉めた。

 舞花はその時、かけるの姿が頭に浮かんだ。かけるは、優しい父親の血を継いでいる、と、そう思えた。この父親がいたから、今のかけるがいるのかもしれない、とも思った。

 かける……。

 舞花は心の中で呟いた。

 まだ私たちは、夢の続きを見ることが、許されているのね……。

 その声は、届くことはないはずだった。けれど、舞花の部屋に、「チェックします」と言って現れたのは、頭にタオルを巻いて、工具箱を持った、かけるだった。



 かけるは、タオルを頭の後ろで、しっかりと結び直した。浴室のタイルの床に、工具箱を置き、「パッキンの傷みかな」と言って、シャワーを手に取り、確かめた。

「手におえなければ、業者だな。父さんは、あまり呼びたがらないけど……経費削減のために。息子もパシリにこき使う、駄目な親父だよ」

「あら、頼りにされてるってことじゃない?」

 舞花が明るく声をかけると、かけるは振り向いて、何かを言いたそうな顔をした。舞花はその時、浴室の狭さに気がついた。お互いの距離がとても近かった。少し気まずくなったのか、かけるはすぐに、またシャワーのほうに体を向けた。

「あっちも僕のことは、バカなやつだって言ってるから、まあ、お互い様かな。僕が帰ってきたのは、夢を諦めたからじゃないんだよ」

 親子で通ずるものがあるのかもしれない、と舞花は不思議に思った。ついさっき、オーナーが話してくれた内容と、同じような話を、かけるもしていた。

「僕はまだ、旅の途中なんだ。時には立ち止まったり、休憩を取る勇気も必要なんだよ」

 かけるは、話しながらも手を止めず、蛇口をひねっては水を出し、また止めたりして、シャワーの調子をチェックしていた。

「きっとね……どんなに回り道をしていても、前を向いてさえいれば、いつかたどり着くはずなんだ。だから、焦ることはない……。僕は自分にそう言い聞かせて、心の安定を保ってるんだ」

 声は少しだけ、浴室の壁に反響していた。それとも……、と舞花は、かけるのすぐ後ろで思った。私の心に響いたのかも……。

 かけるのそばで、かけるの背中を舞花は見つめた。彼の話す言葉が、じんわりとした温かさを持ち、自分でも抑えきれない、「苦悩」という感情を、上から包んで溶かしてゆく……。上手くは言えないけれど、そんな気がした。

「残留水だよ」

 かけるは笑顔を見せながら言った。

「よくあることさ。シャワーヘッドを、こうやって上に向けて、ホルダーに入れると、滴ることは少ないよ」

 かけるは、シャワーを上向きにして片付けた。使わなかった工具箱を手に取る。

「様子を見て、それでも気になるようだったら、ちゃんと水道業者に来てもらおう。……といっても、きみが出て行くほうが、先になるかと思うけど」

 今月が、今週で終わってしまうことを、舞花も知っていた。

 もう少し、彼と話をしていたい……。舞花は、自分の気持ちに気がついた。

 お茶でもどう? そう言って引き止めようとしたけれど、急には勇気が出なかった。

「キッチンの水道も見てくれない?」

 とっさに口から出た言葉に、舞花は自分で驚いた。かけるは「オーケー」と答えて、さっそうと歩いて行った。

 キッチンの台の上には、ワインの入ったグラスが二つ。かけるはそれを見て、一瞬だけ立ち止まり、首をひねった。けれど何も言わずに、水道に近寄って、手を伸ばし、水を出す。止める。そして、見守る……。

「大丈夫」

 かけるはもう一度、舞花に言った。「大丈夫」と。

 舞花はかけるの瞳を見つめた。数秒ほど、ただ黙ってそこに立っていた。けれど、かけるのほうから、その目をそらした。

「きみは、こんなところにいちゃいけないよ。こんな狭いオリの中には、ふさわしくない。世界へ羽ばたく人間なんだ」

 小さなその声は、舞花にセリフを連想させた。……私は、私自身の幸せを探して、世界中を巡るでしょう。留まり続けるのは、あなたの心の中にだけ……。

 次の瞬間、部屋のインターホンが鳴り、かけるは口早に言った。

「じゃあ行くね。また何かあったら、いつもの場所にいるから」

「え?」

「言ってなかったけど、創作意欲を呼び戻してね。似顔絵コーナー、再開したんだ」

 かけるは無邪気な笑みを見せてくれた。

 二人で玄関へ向かうと、そこにオーナーが待っていた。「どうだ、直りそうか?」、「壊れてなかったよ」と、親子は短い会話をし、かけるは廊下を歩いて、らせん階段のほうへ向かった。

「あっ、そうだ」

 オーナーは何かを思い出し、かけるを追いかけ、階段の上から、「おーい!」と、太い声で呼びかけた。すぐに下から、返事が聞こえた。

「なにー?」

「今日スーパーへ行くんなら、ついでに牛乳を買ってきてくれ」

「分かったー。ほんと、パシリだなぁ……」

 オーナーはまた玄関前に来て、それから一度、舞花に深くお辞儀をすると、息子のあとに続いて、らせん階段を下って行った。

 舞花は扉を閉めて、キッチンへと戻った。

 細いグラスの一つから、ワインを飲み干す。

 キミカは、高慢じゃない……。彼女は、ただ本当の幸せを探している、一人の女性にしか過ぎない。多くの愛を求め、世界を飛んでいるうちに、彼女は知るのだろう……。

 自分が、人々の心に、愛を与えていることを。

 舞花は、飲んだワインのせいではなく、内側から、胸が熱くなってくるのを感じていた。

 この役は、誰にも渡したくはない。キミカの役を演じられるのは、私以外に、他にはいない。

 もうすぐだ……。私は、彼女に会える。彼女の姿が、見えてきたから……。

 今度こそは、迷うことなく、監督の前で、彼女になりきることができるだろう。

 
 傘  11 傘


 曇り空。丘の上に、湿気た空気が充満していた。

 かけるは木箱に座ったまま、街並みの絵を描いていた。

 冷たい風が、坂の下から吹いてくる。上の部分がへこんだ、茶色い中折れハットを、かけるは飛ばされないよう、手で押さえた。

 チェック柄のワイシャツが、風を受けて膨らんだ。晴れた日には、そのシャツの鮮やかさが、際立ったことだろう。しかし今は、空と同じように色褪せて見える。

 白いシャツを着た男性が、黒い傘をさして、かけるの前に現れた。

 かけるは、空を見た。雨が降るにはまだ早い。それから男に目を向けた。男は、かけるの数歩前から動かない。傘の下から、風に揺れる金髪と、彫りの深い顔が見えた。

「ボンジュール」と、男が言った。

「ボンジュール……」と、かけるが返す。

 フランス語が通じると分かり、冷たそうな男の顔には、わずかに笑顔が広がった。

「あなたを知っていますよ」

 男はフランス語で続けた。

「でも確信が欲しかったのです。私はスーパーへ行きました。そしてお店の人に、あなたのことを聞きました」

「……僕のことを?」

 かけるは手を止め、男に言った。男はこくり、と頷いた。

「日本語できるの?」

「いいえ」

 男は、傘を持つ、反対の手に持っていた、薄い携帯電話をかけるに向けた。電話から、日本語で「わたしは、ふらんすじんです」と、機械の音声が流された。

「そして、画家の一人です。あなたと同じですね」

 かけるは鉛筆を指で回しながら、男を見上げ、話の展開を考えた。それから、提案してみた。

「描きましょうか。どうぞ、座ってください」

「いいえ、私は、あなたのことについて、聞きたいのです」

 かけるは鉛筆を回す手を止め、胸の前で両腕を組んだ。男は、身長が高く、背筋もピンとしていて、どことなく威圧感を漂わせていた。

「僕のことを、後ろの窓から見ていたのは、あなたですか?」

 かけるの問いに、男は答えた。

「はい。私は、カーテンの向こうから、ずっとあなたを見ていました。正しくは、あなたの絵について、調べていました。同業者として、力量を。そして、どこかで見たことのある描き方だなと、思ったのです」

 かけるは、膝の上からスケッチブックを持ち上げて、今描いていた絵を、男に向けた。男の顔は、微笑を保ったまま変わらなかった。

「それは、モンマルトルですか?」

「違うよ。ここからの眺めを描いているんだ」

「モンマルトルに見えますね。私が住んでいた街です。そこで、一人の男に会いましたよ。それは確か、かけるくんという名前の、若い絵描きでした。彼は、とても変わっていました。明るい色の服を着て、そして、よく喋る方でした。私は似顔絵の客として、一度だけお話をしたのですが」

「覚えてないな……。人違いかもしれないよ。世界には、似た顔の人が、何人かいるっていうからね」

「そうでしょうか。でも絵のタッチまでは、似させることはできません。そう、私は、忘れることができなかったのです。彼は、私に足りないものを持っていましたから。だから私は、旅に出ました。ここに住み着いたのは、もう約二年も前のことです。ここの景色が、モンマルトルの丘に似ていると、話に聞いてきたからです。いったい、誰に聞いたと思いますか? こんな田舎の風景が、あの華やかな街に、似ていると」

「さあ。誰だろうか」

 かけるは、男の顔から目をそらした。けれど男は、かけるの視界に入るように、さらに一歩近寄ってきた。

「あなたですよ、かけるくん。似顔絵のさなか、教えてくれたではありませんか」

 かけるは軽いため息をついた。芸術家には変わり者が多いと、かけるには分かっていたが、ここまで回りくどい人は初めてだった。

 男はさらに話を続けた。かけるは、自分がフランス語ができるということを、こんなにも残念に思ったことはなかった。

「あなたには才能がある。それなのに、なぜこんなところにいるのですか。私は、何度も自暴自棄になりました。あなたという存在を、知ってしまったからですよ」

「嫉妬する要素なんて、一つもないだろう……。僕の何を知ってるって言うんだ」

「知らなかったから、それを調べるのに、一ヶ月もかかったんですよ。あなたには二面性がある。絵を描いている時は、かけるくんというキャラクターを演じているかのように、生き生きとして明るい。しかし描いていない時のあなたは、まるで抜け殻のようだ。どちらが本物なのでしょうね? どちらとも、あなたであるということに、変わりはないのでしょうが」

 かけるは、暗い空に顔を向けた。この人は、僕という人間の性質を、知っているのだ、と感づいた。この人には、ウソは、簡単に見透かされてしまうだろう。

「表と裏。一つだけど、別なんだと僕は思うよ。決めることができるなら、僕は絵描きとしての自分を、認めさせたいと思ってる。僕は、かけるくんという媒体を介して、芸術作品を世に飛ばせたいんだ。それをしている時以外の僕なんて、言ってみれば、ただのおまけでしかないんだよ。本当の意味で、生きているとは言えない」

 かけるの言葉の意味を、男は考えるためか、しばらく口を閉じていた。

 雨が降り始めたので、かけるはスケッチブックを閉じて、立ち上がった。それに気づき、男は早口で喋った。

「……仕事をしたい。絵を描いて……」

 えっ……と、かけるは男を見上げた。言葉の前後が、早すぎて聞き取れなかった。

 男はもう一度、今度はゆっくりと、単語を区切るように発した。

「あなたと、一緒に、仕事をしたい。絵を描いて、展示会を、開きましょう」

「……どこで開くのですか?」

 男は、射るような強い眼差しを、かけるに向けながら、言い放った。

「芸術の街、モンマルトル。大丈夫。どこにいようが、吹く風は、同じです。この世界には、吹かない国など、ないのですから。私たちは、鳥のように、この風に乗って、どこからでも、そして、どこへでも、飛び立つことができるのですよ」

 かけるの手から、鉛筆が滑り落ちた。軽い木の音を響かせて、地面にバウンドし、坂道へと転がって行く。

 黒い傘の下で、白いシャツのモノクロな男は、雨に濡れてゆくかけるの姿を、まっすぐな瞳で見つめていた。

 
 鏡  12 鏡


 鳥の声で目が覚めた。

 舞花はベッドから起き上がると、窓のカーテンを開け、空を仰いだ。

 三日間降り続いていた雨は上がり、雲一つない晴天が広がっている。二羽の鳥が、大空を自由に遊んでいた。

 舞花はクローゼットの扉を開けた。何着もの、同じ青いワンピースが、ハンガーにかけられ、整列している。

 舞花はその一つに身を包んだ。

 鏡の前で、手ぐしで髪をときながら、映った自分に、心の中で呼びかける。

 今までどこにいたの。なかなか探してあげられなくて、ごめんね。きっと私は、見えない先のことばかりを気にしすぎていて、勝手に塞ぎ込んでいたのね……。

 そして、声に出して、力強く言ってみた。

「やってみなければ、何も分からないし、変わらない」

 そんな当たり前のことが、ようやく分かるようになったなんて、なんて無知だったんだろう、私……。

 鏡に向かって、笑顔を作る。両手で、両頬にそっと触れる。

 自分の顔は、直接、自分の目で見ることはできない。それでも笑う。自分のためだけじゃない。見てくれるすべての人たちへ、心の中へ、想いを届けられるように。

 それ以上の望みはないわ、と、舞花は思った。それが、私の生きる道。



 アパルトマンの前には、黄色いニット帽をかぶったかけるが、木箱に座って絵を描いていた。それぞれ大きさの違うボタンが、着ている服に、縦にいくつも連なっていた。

 舞花の靴音を耳にして、かけるはピタッと手を止めた。舞花を見て、それからすぐに、空を見た。かけるは、

「今朝、キレイな虹が出ていたんだよ。とても大きな架け橋だった……。それで僕は、何かいいことが起きるんじゃないかって、思うことにしたんだ」

 と、舞花に静かなトーンで話した。

 舞花は、かけるの前に置かれている木箱に、そっと腰掛けた。

「今月が終わってしまう……。きみの似顔絵は、間に合わなかった。でも僕は、きみが目の前にいなくても、きみの姿を描くことができるよ」

 かけるは、スケッチブックを閉じて、その上に鉛筆も置いた。

「胸の中に、きみはいるんだ。たとえ、もし僕が、きみの顔を忘れてしまったとしても、きみは女優さんだからね。見ようと思えば、いつでも見ることができるだろう。それはつまり、星なんだ。僕が道に迷った時も、きみを目印にして、歩き続けて行けると思う」

 言い終わると、かけるは小さな笑い声を上げた。

「よし。上手く言えたぞ。これできみも忘れないだろ? こんなキザなセリフを言うやつが、いたんだっていうことを」

「あなたは、どんな時でも……深いことを、平気な顔で言う人だった。あなたの言葉に、私はきっと救われたの。だから、忘れるわけないじゃない……」

 俯いた舞花に、かけるは帽子の上から頭をかいて、おどけたように呟いた。

「そうかい? なんか、説教くさいことを言っていたような、そんな気はするけどね……」

 俯いたままで、舞花は笑った。

 かけるは舞花を見つめながら、何かを話そうとして、何度か口を開きかけた。けれど思い直したのか、その時は何も、喋らなかった。

 向かい合ったままの二人の間に、柔らかな風だけが流れていった。

 舞花は顔を上げ、かけるを見た。かけるも舞花の顔を見ていた。舞花が笑うと、同じようにかけるも笑った。

「私たちは、似ていたわ。まるで鏡を見ているように。同じように悩んでいたの。あなたに会えたから、私は、彼女も見つけることができたのよ」

「……あのワインを見た時……」

 かけるは、ゆっくりと口を開いて、抑えた声で、舞花に伝えた。

「そうじゃないかって思った。二人分あったから。探してた人に、会えたんだろうな、って……。だけどそんなこと、僕にはどうだってよかったんだ。ただここにいてほしい。できることなら、ずっと、きみと笑い合って過ごしていたい……。でも、そういうわけにはいかないだろう? きみが出ていくのなら、僕だって、もう、ここに留まり続ける理由はないと感じたよ。だから決めたんだ。もう一度、パリへ行くよ」

 舞花は大きな目を見開いて、かけるの声を聞いていた。

「応援してくれる人がいたんだ。人は、自分のためだけじゃなく、必要としてくれる誰かのためにも、生きてゆける。そこに深い意味なんて、探さなくたっていいさ。きみなら分かるよね。ファンが待ってる、ただそれだけで、頑張ろうって思えるばずだ」

 舞花は目に熱いものを感じた。早い瞬きを繰り返しながら、かけるに何度も頷いて見せた。

「ええ、そうね……。私も、あなたが成功するように、祈っているわ。短い間だったけど、話せてよかった。本当にありがとう……。……もう、行かなくちゃ。朝までに、荷造りをしておかないと……」

 舞花は立ち上がった。その瞬間、かけるに腕を掴まれた。はっとして、舞花はかけるの顔を見た。かけるは、慌てて手を放した。

「ごめん、これで最後なんだと思うと……」

 かけるは、スケッチブックと鉛筆を木箱に置き、舞花の前に立って、右手をそっと開くと、言った。

「僕と、握手してください」

 舞花は、優しく笑って、「はい」と答えた。そして、右手ではなく、左手を出した。かけるはそれを見て、自分も左手を差し出した。

 舞花はかけるの左手を、両手で包んだ。ペンダコのついた、かけるの利き手を、手で撫でる。

 かけるは目を閉じた。感触を、記憶に留めておくかのように……。

 舞花は心の奥で願った。

 どうか神様。この手が、素晴らしい芸術を作り出せますように。そして、いつか誰かの、心の中に……美しい思い出として、ずっと長く、あり続けますように……。



 白いお皿にパスタを盛った。

 寝室の、丸い机の上まで運ぶ。赤いワインと、チーズものせた。

 いつもと変わらない、音のない、静かな食卓だった。

 ここでの、最後の晩餐ね……。

 舞花は一人、微笑んだ。

 パスタをフォークに絡ませながら、ふと顔を上げると、白い縁飾りの鏡が見えた。

 舞花は、鏡の向こうの、反転した部屋の中にいる、自分を眺めた。

 大丈夫。自分が、自分を信じてあげられないようじゃ、誰も信じてくれないでしょう。不安がないと言ったら、ウソになる。それでも私は、プラス思考を貫きたいの。

 今すぐ、答えが出なくてもいい。歩いているうちに、後ろに道はできてゆくから。何も無駄にはならないわ。今はただ、前を向いていれば、それでいい。

 不意に舞花は、かけるに腕を掴まれた感覚が蘇った。

 フォークを皿に置き、もう片方の手で、腕をさする。

 私は、彼の星になるの。

 かけるに言われたことを、心に思い返していた。

 彼が迷った時も、私が導いてあげられるように。強く、輝けるように。

 私に光を見れたなら、きっと彼も輝ける。似通った二人なら、この鏡のように……。

 
 窓  13 窓


 舞花はオフホワイトの、クローゼットの扉を手で閉めた。

 中に吊っていた青いワンピースは、すべて、ダンボールの一つに収めることができた。

 鏡台の上から、並べていた化粧品の数々を、黄色いスーツケースの中にしまった。ほとんどが、中身を使い切ったあとの、空の瓶になっていたので、来た時とは違い、スーツケースは軽かった。

 舞花は、ボタニカル柄の長いスカートを翻しながら、寝室を出た。

 キッチンの棚を、一つずつ開けて確認をする。残っているものは何もない。

 冷蔵庫の扉を開ける。食材はキレイに食べつくした。空っぽなのを見届けてから、また閉める。後ろのコンセントに手を回し、プラグを引き抜く。

 洗面所へ行き、洗濯機の中を覗く。何もない。

 お風呂場にも向かい、その場で全体を見回してみた。シャンプーやリンスも、昨夜、使用したあとに片付けた。上を向いたシャワーヘッドからも、水は落ちていなかった。

 スーツケース一つと、ダンボール二つと、ゴミ袋一つを、部屋から出して、廊下に置いた。

 廊下には、若い女性マネージャーが立っていた。

「本当に、お手伝いしなくてもよかったんでしょうか?」

 彼女は、スーツの丸い襟の上で、ちょこんと首を傾げて見せた。短い黒髪が、片側に流れた。舞花は一度、大きく息をついてから、彼女に言った。

「ええ。さっき、布団を運んでもらったでしょう? それだけで十分。あとは全部、自分の手で、片付けておきたかったのよ。だけど……ここからは、ちょっと手を貸してもらえるかな。車までは遠いから」

「了解です」と言って、彼女はダンボール二つを、重ねて持った。「頑張れー」と舞花が短い声援を送ると、「はいっ」と返答し、急ぎ足で歩いてゆく。

 舞花は玄関から、部屋の中を眺めてみた。狭いアパルトマンだった。でも、生活するには十分だった。むしろ、狭いからこそ、掃除をするのも楽だった。

 いろいろな思い出が、心に湧き上がってきそうになった。それでも、舞花はあえて、買い物にでも行くかのような、そんなさり気なさで、扉を閉めた。

 感傷に浸っている場合じゃないわ。前を向いて行くんでしょ、舞花。

 持っていた鍵を、鍵穴に差し込みながら、舞花は自分を勇気づけた。

 来た時と同じように、つばの広い麻の帽子と、サングラスを身につける。

 残った荷物を両手に持つと、マネージャーのあとを、サンダルの靴で追いかけた。



 アパルトマンの入り口付近に、光沢のある黒いワゴン車が停められていた。

 マネージャーは、車のドアをスライドして開け、二つのダンボールを中へ入れた。

「ロケ用の車を回してきたんですけど、意外と少なかったんですね」

 明るく笑って言いながら、舞花の手から荷物を受け取る。

「ねえ、ちょっと待ってて。多田さんに、挨拶してこなくちゃ……」

 言いながら、舞花がアパルトマンを振り返ると、ちょうど表に出てきた、オーナーの姿が見えた。舞花はふと、その隣のほうに目をやった。いつもかけるが座っていた場所。そこには今、かけるはいない。それに、リンゴの絵がついていた木箱も、イーゼルに立てられていた看板も、初めから、何もなかったかのように、すっかり片付けられていた。

 舞花は少し、胸の痛みを感じながら、オーナーの前に歩いて行った。オーナーに、部屋の鍵をそっと手渡す。オーナーは、低い声で舞花に聞いた。

「お忘れ物はないですか?」

「たぶん……。もし見つけたら、処分してくださって大丈夫です。必要なものは、全部、持ちましたから」

「探していたものも?」

 その一言に、舞花はドキッとした。それでも、静かにサングラスを外すと、オーナーの目をしっかりと見据えて、舞花は強く頷いて見せた。オーナーは満足げな笑顔を見せた。

「私の息子も、旅立ちの準備をしていますよ。三年ぶりに帰ってきたと思ったら、またフランスへ行くんだとか。まったく、慌ただしいやつです。とはいえ……出発の日時は、まだ決めてない、とも言っていましたがね」

「多田さんにも、息子さんにも、とても感謝しています。孤独な私の、話し相手になってくださって。彼にも、どうかよろしくお伝えください。本当は今日、直接、お別れを言えたらよかったのですが……」

「いえいえ、お気になさらずに。あいつは朝から、図書館に行くと言って、出て行ったきり。待っていても、帰ってはこなかったでしょう。そこへ行くと決めた日には、長時間、気の済むまでいるんですよ。美術の写真集だったり、図鑑だったり、好きな本が豊富に揃っていますから、読むのについ、没頭してしまうんでしょうな」

 オーナーは坂の上から、遠くに少しだけ見えていた図書館の屋根に、細めた目を向けていた。舞花もそちらを眺めながら、オーナーの静かな語りを、隣で聞いた。

「それで、思い出したんですが……あいつはよく一人で、借りてきた絵本なんかを、何度も繰り返し見ているような、そんな子供だったんですね。友達もいませんでしたし、今思えば、その経験があったからこそ、絵の道を目指したんじゃないか、と……。一人でいる人間は、他と違って、独自の個性が芽生えやすい。芸能界でも、同じことが言えるのではないでしょうかね。私なんかが、偉そうに言うのもなんですが……。個性的な人というのは、つまり、孤高の人なんですよ。他人に惑わされず、自分を磨ける人、といいますか……。ですから、一人の時間は、クリエイティブな人間にとって、必要不可欠だということです」

 オーナーは舞花の横顔に目を移した。舞花はその視線を感じながら、前を向いたまま頷いた。オーナーもまた前を見つめた。

「私も息子と離れ、このアパルトマンの中で一人、アイデンティティを模索することにいたしましょう。いやぁ、いくつになっても、答えの出ない謎解きみたいなものですがね……ハハハ」

 さわやかに笑ったオーナーに、舞花も明るい笑みを返した。

 舞花は、とても有意義な話を聞けたような気がした。もしかけるがここにいたら、オーナーはこんな話をしてはくれなかっただろう。かけるが図書館に行ってくれていて、よかった、と、舞花は思った。

 それに、さよならを言いたくはない……。見送ってくれなかったわけを、舞花はかけるの立場になって考えてみた。この場にいないという意味を、想いを、そう汲み取ってくれ、と、彼が伝えてくれているような、そんな気がした。

「舞花さん、行きますよー」

 運転席に座ったマネージャーが、開いた窓から呼びかけた。

「お元気で」と、オーナーが言った。「はい。多田さんも」と言って、舞花は小さくお辞儀した。

 オーナーが手を振る中、舞花は後部座席に乗り込んだ。

 車がゆっくり動き出す。

 窓にかけられていた、車内のカーテンの隙間から、舞花は遠ざかってゆく景色を見つめた。

 佇むオーナーの姿が、だんだんと小さくなっていく。

 アパルトマンの白い建物も、坂を下って行く車の窓から、徐々に見えなくなってしまった。

 街並みが、速いスピードで流れては、遠くのほうへ消えていく。

 よく通っていたスーパー。白線の途切れた十字路。瓦屋根の、ケーキ屋さん。郵便局と、かけるのいた、あのバス停も……。

 何を思いながら歩いたか、私以外に、それは誰も知ることはない。窓はただ、景色だけを流してゆく。その場所は、月日とともに、いずれ変わってしまうだろう。それでも、記憶の中では、決して変わらないし、変えられない。巻き戻せない、過去の時間と同じように……。

「一ヶ月って、早いわね。忙しかった時は、私、分刻みで生活していたから、一日が経つのも、とても長く感じていたのに……」

 舞花の呟きを聞いて、マネージャーは運転席から、振り返ることなく声をかけた。

「舞花さん、働き過ぎなんですよ。雇われている私が、言っちゃいけないことかもですが。お休みをもらえて、ちょうどよかったって思ってるんです。そりゃ、一人で行かせるには心配でしたが……。今後も無理してまで、お仕事は続けないでくださいね。いつか倒れちゃいますから」

「大丈夫。ちゃんと分かってる」

 舞花は、窓のカーテンをしっかりと閉めた。

「それで、明日からのスケジュールなんだけど」

「え、もう復帰モードですか?」

 マネージャーは小さく笑った。気にせず、舞花は後ろから話し続けた。

「とりあえず、まずは衣装さんに、借りていたワンピースをお渡ししてね。いくつかホツレができたから、直せるようだったらお願いしたいの」

「分かりました。ダンボールごと送っておきます」

 舞花は帽子を脱いで、自分の長い髪に指を滑らせた。

「あと、ヘアサロンの予約と、ボイストレーナーさんに連絡して。指導を依頼したいの。台本に急きょ、歌が入ったそうだからね」

「パーマ取れちゃってますもんね、舞花さん。でも私は、どんな舞花さんでも好きですけどね。たとえ音痴だとしても」

 舞花は、バックミラーに映るマネージャーと、目を合わせながら、声には出さずに笑ってやった。

「あっ、そうだ。舞花さんがいない間、マスコミの記者が取材に来ましたけど、なんとか誤魔化しておきましたから」

 顔色も変えずに、マネージャーは淡々と言った。

「お休みをいただいているのは、別に体調不良とかじゃないんです、心配しないでください、って。彼女は今、リゾート地へバカンスに行ってるんです。羽を伸ばしているんですよ、と……。すみません、他にいい感じの、思いつかなくって」

「分かった、バカンスね……。いいたとえじゃない。だってそれって……」

 舞花は笑顔で言い切った。

「合ってる」

 
 プレゼント  14 プレゼント


 舞花は広い部屋に、そっと足を踏み入れた。

 裸足で中央まで進み、立ち止まる。青いスカートの端を両手で摘み、お辞儀をする。

「少し痩せたか」

 と、監督は言った。舞花は頷く。

「自炊をしていたので、体も絞れたみたいです。いい役作りになりました」

「では確かめよう」

 監督は座っていたパイプ椅子の背に、深くもたれかかった。椅子は、短く唸るような音を上げた。年季の入ったその椅子の音は、舞花の胸に、懐かしさを思わせた。

「今回の舞台は、数人の共演者はいるが、ほぼ、お前の一人芝居のようなものだ。こちらの準備はもう整っている。練習期間はこれから、数日ほどしかやれんぞ」

「大丈夫です。セリフも動きも、すべて頭に入っています」

「客は、形のないものに金を払うんだ。せめて土産に、心に刻める感動を与えてやれ」

「はい」

 そして、舞花は目を閉じた。その場で呼吸を整える。吸って、吐いて、目を開ける。監督を客だと思い、セリフを口にし始める。

 監督は、白髪頭を上下に一度、動かせた。舞花の演技を見つめながら、口の中で「キミカ……」と、かすかに呟いた。

 舞花は青いスカートを翻しながら、部屋全体を大きく使い、立ち回った。

 私は、鳥。人々の心に、愛を振りまく、一羽の鳥。

 誰の元にも留まらず、自分自身の幸せを探して、自由に生きる。愛されるという喜びを、糧として。

 キミカという、一つの役を演じながら、新しい境地を知るの。

 人は、何にだってなれる。変えようと思えば、変えられる。演じているうちに、やがてそれが、本物へと近づいていくように……。

 そう……自分を救えるのは、いつだって、自分の気持ち次第なの。



 下げた頭の向こうから、歓声と拍手が押し寄せてきた。

 舞花は、深くお辞儀をした体勢のまま、それを耳に入れていた。

 顔から汗が滴り落ちた。見つめ続ける舞台の床に、涙のように落ちていく。

 遥か上から、赤い幕が下りてきた。そこからわずかな風を感じた。

 下まで幕が閉じ切った、広い舞台の内側で、舞花はようやく顔を上げた。

 演出で薄暗くされていた照明が、じんわりと元の明るさを取り戻してゆく。

 舞花は裸足のままで、舞台袖へと歩いて行った。

 けれども、途切れることのない拍手に応えるため、閉じた幕の向こう側へと、再び歩を進めて行った。

 舞花はもう一度、客席に向かって頭を下げた。

 カーテンコールは何度か続いた。

 他の共演者たちも袖から姿を現すと、舞花も彼らに拍手した。

 この劇場という、大きな一つの空間に、笑顔の波が広がっていた。

 客の心に、感動を届けることができた、と思うと同時に、舞花の心にも、強い充実感が満ちていた。

 舞台の上から、舞花は客席をゆっくりと見回した。一階席を、右から左へ。そして今度は二階席を、左から右へ。

 客の中には立ち上がって、「ブラボー!」と叫んでくれた人もいた。

 後ろ髪を引かれる思いで、舞花は共演者たちと連れ添って、舞台袖へとはけて行く。

「お疲れ様でした!」

「お疲れ様でしたー!」

 大勢のスタッフの声が、同じ言葉を繰り返している。

「歌が、耳から離れないの」

 舞花は、そばに駆け寄ってきたマネージャーに言った。

「あの歌は、入れてくれて正解だった。鳥は、歌いながら飛んで行くの。物語のラストを締めるのに、これほど相応しいものはないわ」

「完璧でしたよ、舞花さん」

 マネージャーはただそれだけ言うと、舞花の手を優しく取った。そのまま手を引きながら、彼女は舞台裏から通路を歩き、舞花を楽屋へと連れてきてくれた。

 一歩中に入ると、スタッフの声も騒音も、何の音も聞こえなくなった。突然すべての音が、消えてしまったような気さえした。

 舞花は、丸いライトの並ぶ、大きな鏡の前の椅子に、そっと腰を下ろした。すぐにメイクさんがやってきて、舞花の顔から汗を拭き、手直しをし始める。舞花はされるままに身を任せた。

 マネージャーが、舞花の隣の椅子に座り、忙しげに早口で喋りかけた。

「このあと、少しの休憩を挟んで、打ち上げパーティのため、別の会場へ移動します。あと、それと……」

 マネージャーは立ち上がり、奥の机に置いてあった、長方形の平たい箱を、舞花の前に持ってきた。

「これが、舞花さん宛に届いていまして、あ、中身はチェック済みです」

「何かしら……」

 舞花は、いったんメイクさんの手を止めさせて、その箱を受け取った。膝の上にのせて、蓋を両手で持ち上げた。

 中には、白い額に縁どられた、一枚の絵が入っていた。

「キレイな絵ですよね。まるで写真みたい」

 マネージャーはそう言って微笑んだ。

「残念ながら、差出人の名はなくて……たぶん、ファンの方からの、プレゼントだと思いますが」

 舞花は言葉を失ったまま、その絵をじっと見つめていた。

 細部まで丁寧な線で描かれた、青いワンピースの自分。滑らかに入った陰影が、リアルな立体感を表している。

 舞花は鏡を見ているかのような、不思議な錯覚に陥った。けれど、それが絵だと、はっきり分かるものがある。絵の自分の後ろには、雲に似せた、たくさんの筋で、あるものが足されていたからだ。

 羽だった。薄い青色に染まった、柔らかな羽が、舞花の背中から広がっている。

 下のほうに書かれていた、小さな細い文字を見つけ、声に出して読んでみた。

「Kakeru T.」

 サインは絵に溶け込むように、背景の空と似た色合いで記されていた。

「知っている方のお名前でしたか?」

 マネージャーの問いかけに、舞花は「ええ」と、頷いた。

 自分の腕を撫でながら、静かな声でこう言った。

「彼の、もう一つの名前なの。それに……とてもステキな、役者さんだったわ」

 
 メガネ  15 メガネ


 らせん階段の壁画の前で、かけるは自分の入れた、Kakeru T.というサインを見ていた。

 透き通った、コバルトブルーの絵の前で、一人無言で立ち尽くす。

 メガネの奥で、目を閉じた。

 麦色のカンカン帽をかぶった頭を、帽子ごと壁に押し当てる。

 斜めになった体から、重力でネクタイだけが垂直に下がった。色鮮やかな、ネクタイの裏地が揺れている。

「カケルクン」

 と、すぐ後ろから声が聞こえた。かけるは、壁に手をついて頭を離し、振り返った。

「カケル・タダ……ペンネームを入れたのなら、この絵は完成したのですね」

 と、スーツの男が、ボストンバッグを肩にかけ直しつつ、フランス語で言ってきた。

「出発は、お父様には言われたのですか?」

「いや。子供じゃないんだから、お別れの挨拶なんてしないのさ」

 かけるは男に笑って見せた。男は黙ってかけるを見ていた。

 かけるが沈黙に耐えかねて、首を傾げて伺うと、男は控えめに微笑みながら、かけるに話した。

「いえ、これは前から気になっていたことなのですが……、あなたはなぜ、偽物のメガネをしておられるのですか?」

「ああ……伊達メガネのこと?」

 かけるは指先で、黒縁メガネを擦り上げた。

「なんて言ったらいいかな……まあ、トレードマークみたいなものかな。もう分かってるとは思うけど、僕は、形から入る人間なんでね」

「なるほど。帽子のコレクションも豊富なようですし……オシャレな人だ」

 かけるはカンカン帽を頭から取り、胸の前に当てると、礼をして見せた。「ありがとう」と、男に小さな声で言い、またかぶる。

「私は、よきライバルに巡り会えたことを、幸運に思いますよ。あなたは、アイデアの泉となるのです。では、参りましょうか」

「ああ……もう少しだけ……」

 かけるは男に明るく言った。

「先に行っててくれ。必ず追いつくから」

「……いいでしょう。それではまた、後ほど」

 男は靴音を響かせて、階段を下りて行った。表情からは読み取れなかったが、心が弾んでいるような、軽やかなステップだった。

 かけるは壁の絵を、手の平でそっと撫でてみた。ざらざらとした冷たい感触が、皮膚の表面を軽く擦る。

 それから足もとに置いていた、茶色いトランクを手に持った。

 歩き出そうとしたその瞬間、太くて大きな声が、どこからか響いてきた。

「おーい!」

 声は短く反響したので、その出所が分からなかった。かけるは手すりに掴まって、階段から身を乗り出し、下を見た。誰もいない。反対に、今度は上を見てみると、段のずっと上のほうで、父親が顔を覗かせているのが見えた。

「ようっ、要二!」

 呼ばれて、かけるは下から、同じく大きな声で応えた。

「なにー?」

「頑張れよっ!」

 父親は一言、息子にそう言い放つと、少し恥ずかしそうに、階段から奥の通路へと引っ込んで行った。

 笑いながら、かけるは再び歩き出した。階段を下って、アパルトマンの外に出た。

 丘の上から、見慣れた街並みに目を馳せる。かけるはメガネを外すと、一度だけ立ち止まり、その景色を目に焼き付けた。

 その時だった。流れの速い風が、坂道を通り過ぎて行った。風はいつかと同じように、かけるの帽子を吹き飛ばすと、ふわりふわりと、坂の下へと運んでいった。

 メガネを手に持ったまま、かけるは帽子を目指して、駆け出した。

 坂に流れる柔らかな風が、彼の髪を優しく揺らした。



◆ E N D



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