2018
10.02

アパルトマンで見る夢は 10 グラス

Category: 小説

 ワイングラス

 キッチンの台の上に、透明な細いグラスを二つ、並べた。

 赤いワインを、同じ量だけ注ぎ込む。

「出逢えた記念に、乾杯しよう。二人の愛に、赤い、血潮のようなこのワイン」

 言いながら、舞花はグラスを一つ持ち上げると、隣のグラスに軽く打ち付けた。

 それから一口、のどに流し込んでから、言った。

「いつまでも一緒にいておくれ、キミカ。きみは僕の生きる希望。永遠の夢」

 舞花はグラスを台に置き、少し横に移動して、立ち位置を変えた。それからわずかに間を置いて、声を震わせながら言った。

「いいえ、私は誰のものにもならないの。この心は底なしのように深く、一つの愛では、決して満たされることはない。私は、私自身の幸せを探して、世界中を巡るでしょう。留まり続けるのは、あなたの心の中にだけ……」

 舞花はグラスに背を向けた。大きくため息をつく。「なんて高慢なの、キミカって人は……」と、小声で吐き捨てるように言った。

 キッチンの台に、背中を押し付けたまま、座り込んだ。

 部屋は、音もなく静か……。動いているのは、時計の針と、私だけ……。

 いや、違う。ポタ、ポタ……、と、何かが落ちる音がした。

 重い腰を上げ、ゆっくりと立ち上がると、キッチンの流しのほうを見た。蛇口から、水が滴っているのかと思った。が、違っていた。

 舞花は台に両手をついて、目を強く閉じ、俯いた。

 邪魔をしないで。集中できない……。

 ポタ、ポタ……音が耳から、頭の中へ反響している。舞花はまぶたを開けた。裸足で廊下を歩いて、音のするほうへゆく。

 お風呂場だった。シャワーの先端から、丸い水が一粒ずつ生まれ、床のタイルに落ちて弾ける。

 下を向いたシャワーの姿が、舞花の目には、まるでうな垂れているように見えた。



 一階、一号室のチャイムを鳴らすと、ポロシャツに短パン姿のオーナーが、電話をしながら姿を見せた。大きな手を広げ、「待って」、と言うようにジェスチャーしたあと、

「おお、それじゃあな。あとでかけ直すよ」

 電話の相手に喋ってから、それを切ってポケットにしまった。

「どうかなさいましたか、三鷹様。また、お歌の伴奏のお誘いでしょうか?」

 やけに丁寧な言葉で話してくるオーナーに、舞花は思わず笑ってしまいそうになった。けれどポーカーフェイスは崩さずに、短く簡潔に言った。

「シャワーの水漏れらしいの。修理をお願いしたいのですが」

「分かりました。すみません、もうかなり古い建物なので、きっとガタがきているのでしょう。ちょっと確認させていただきます。自分で直せるような状態でしたら、業者の方はお呼びしなくてもいいかもしれません。いくつか道具を用意してから向かいますので、お部屋のほうで待っていてくださいますか」

 オーナーは自分の腕時計に目を落とした。

「あ、今少し、お時間よろしいですか?」

 聞かれて、舞花は一瞬ためらったが、「ええ」と言って、頷いた。それを見て、オーナーも頷いた。そして周りに誰もいないことを、首を回して確かめたあと、内緒話でもするかのように、声をひそめて話し出した。

「実は、先ほどの電話の相手からなのですが……何と言いますか、その……あなたが彼女に会えたかどうか、彼が心配していましてね。私の友人の、監督をやっている男が、ですね。来月あなたが、自分の元へ帰ってこない、ということも想定して、代役の役者を、候補に選んでおかねばならない、と、こう言うんですよ。私は、一ヶ月は待つときみが決めたのだから、そこは信じて待つべきだ、とそう言ってやりましてね。私も、夢を持つ人間でしたから、若い可能性を、大人の勝手な都合なんかで、摘み取りたくはないんですね。だから、そう言ったんですが……それで、よかったでしょうか?」

 舞花はオーナーの目をまっすぐ見据えたままで、数秒間、黙って考えた。そして、自分でも感心するほど、冷静に声が出た。

「はい、大丈夫です。私に代役なんて、必要ありません。多田さんの思いにも応えられるよう、励みたいと思います」

「それを聞いて安心しました」

 にこやかに微笑みながら、オーナーは続けた。

「うちは、丘の上に建つアパルトマンですから、家賃も安いですし、多いのですよ……働きながら、夢を追う人は。その中には、簡単に諦めてしまうバカもいる。しかし私は、頑張って夢を見続けようとする人を、ここから応援したいんです。……あ、それには、部屋のメンテナンスも、ちゃんとしておかなければなりませんね」

 オーナーは、「すぐ行きますから」と言って、扉を閉めた。

 舞花はその時、かけるの姿が頭に浮かんだ。かけるは、優しい父親の血を継いでいる、と、そう思えた。この父親がいたから、今のかけるがいるのかもしれない、とも思った。

 かける……。

 舞花は心の中で呟いた。

 まだ私たちは、夢の続きを見ることが、許されているのね……。

 その声は、届くことはないはずだった。けれど、舞花の部屋に、「チェックします」と言って現れたのは、頭にタオルを巻いて、工具箱を持った、かけるだった。



 かけるは、タオルを頭の後ろで、しっかりと結び直した。浴室のタイルの床に、工具箱を置き、「パッキンの痛みかな」と言って、シャワーを手に取り、確かめた。

「手におえなければ、業者だな。父さんは、あまり呼びたがらないけど……経費削減のために。息子もパシリにこき使う、駄目な親父だよ」

「あら、頼りにされてるってことじゃない?」

 舞花が明るく声をかけると、かけるは振り向いて、何かを言いたそうな顔をした。舞花はその時、浴室の狭さに気がついた。お互いの距離がとても近かった。少し気まずくなったのか、かけるはすぐに、またシャワーのほうに体を向けた。

「あっちも僕のことは、バカなやつだって言ってるから、まあ、お互い様かな。僕が帰ってきたのは、夢を諦めたからじゃないんだよ」

 親子で通ずるものがあるのかもしれない、と舞花は不思議に思った。ついさっき、オーナーが話してくれた内容と、同じような話を、かけるもしていた。

「僕はまだ、旅の途中なんだ。時には立ち止まったり、休憩を取る勇気も必要なんだよ」

 かけるは、話しながらも手を止めず、蛇口をひねっては水を出し、また止めたりして、シャワーの調子をチェックしていた。

「きっとね……どんなに回り道をしていても、前を向いてさえいれば、いつかたどり着くはずなんだ。だから、焦ることはない……。僕は自分にそう言い聞かせて、心の安定を保ってるんだ」

 声は少しだけ、浴室の壁に反響していた。それとも……、と舞花は、かけるのすぐ後ろで思った。私の心に響いたのかも……。

 かけるの側で、かけるの背中を舞花は見つめた。彼の話す言葉が、じんわりとした温かさを持ち、自分でも抑えきれない、「苦悩」という感情を、上から包んで溶かしてゆく……。上手くは言えないけれど、そんな気がした。

「残留水だよ」

 かけるは笑顔を見せながら言った。

「よくあることさ。シャワーヘッドを、こうやって上に向けて、ホルダーに入れると、滴ることは少ないよ」

 かけるは、シャワーを上向きにして片付けた。使わなかった工具箱を手に取る。

「様子を見て、それでも気になるようだったら、ちゃんと水道業者に来てもらおう。……といっても、きみが出て行くほうが、先になるかと思うけど」

 今月が、今週で終わってしまうことを、舞花も知っていた。

 もう少し、彼と話をしていたい……。舞花は、自分の気持ちに気がついた。

 お茶でもどう? そう言って引き止めようとしたけれど、急には勇気が出なかった。

「キッチンの水道も見てくれない?」

 とっさに口から出た言葉に、舞花は自分で驚いた。かけるは「オーケー」と答えて、さっそうと歩いて行った。

 キッチンの台の上には、ワインの入ったグラスが二つ。かけるはそれを見て、一瞬だけ立ち止まり、首をひねった。けれど何も言わずに、水道に近寄って、手を伸ばし、水を出す。止める。そして、見守る……。

「大丈夫」

 かけるはもう一度、舞花に言った。「大丈夫」と。

 舞花はかけるの瞳を見つめた。数秒ほど、ただ黙ってそこに立っていた。けれど、かけるのほうから、その目を逸らした。

「きみは、こんなところにいちゃいけないよ。こんな狭いオリの中には、ふさわしくない。世界へ羽ばたく人間なんだ」

 小さなその声は、舞花にセリフを連想させた。……私は、私自身の幸せを探して、世界中を巡るでしょう。留まり続けるのは、あなたの心の中にだけ……。

 次の瞬間、部屋のインターホンが鳴り、かけるは口早に言った。

「じゃあ行くね。また何かあったら、いつもの場所にいるから」

「え?」

「言ってなかったけど、創作意欲を呼び戻してね。似顔絵コーナー、再開したんだ」

 かけるは無邪気な笑みを見せてくれた。

 二人で玄関へ向かうと、そこにオーナーが待っていた。「どうだ、直りそうか?」、「壊れてなかったよ」と、親子は短い会話をし、かけるは廊下を歩いて、らせん階段のほうへ向かった。

「あっ、そうだ」

 オーナーは何かを思い出し、かけるを追いかけ、階段の上から、「おーい!」と、太い声で呼びかけた。すぐに下から、返事が聞こえた。

「なにー?」

「今日スーパーへ行くんなら、ついでに牛乳を買ってきてくれ」

「分かったー。ほんと、パシリだなぁ……」

 オーナーはまた玄関前に来て、それから一度、舞花に深くお辞儀をすると、息子のあとに続いて、らせん階段を下って行った。

 舞花は扉を閉めて、キッチンへと戻った。

 細いグラスの一つから、ワインを飲み干す。

 キミカは、高慢じゃない……。彼女は、ただ本当の幸せを探している、一人の女性にしか過ぎない。多くの愛を求め、世界を飛んでいるうちに、彼女は知るのだろう……。

 自分が、人々の心に、愛を与えていることを。

 舞花は、飲んだワインのせいではなく、内側から、胸が熱くなってくるのを感じていた。

 この役は、誰にも渡したくはない。キミカの役を演じられるのは、私以外に、他にはいない。

 もうすぐだ……。私は、彼女に会える。彼女の姿が、見えてきたから……。

 今度こそは、迷うことなく、監督の前で、彼女になりきることができるだろう。



目次 / 次へ → アパルトマンで見る夢は 11 傘



読者の方へ お読みいただき、ありがとうございます。
 一言でもいいので、作品への コメント・ご感想 を、お待ちしています。

 にほんブログ村 にほんブログ村へ  


トラックバックURL
トラックバック
コメント
キミカは役名だったんですね。
役者さんが別の人を演じるのって、
自分以外のものになりきるような
イメージがあったのですが、
もしかするとなりたい自分になるための手段
という側面もあるのかも知れません。

小説を読んだり、映画を見たり、
外国に行ったりして
実は私もしっくり来る自分を探していたのでしょうか?
だとしたら、人生ってかけるさんの言う通り
本質的には演じるということなのかも。

これって自分を愛することに近い気がします。
人に認められる私ではなく、
自分が認める私を自分の中に増やしていくような感じで……
そういうものを人は本来愛しく感じるのでは
ないでしょうか?
子どものヒーローごっこみたいな感じです。
C33 dot 編集
このコメントは管理人のみ閲覧できます
- dot 編集
このコメントは管理人のみ閲覧できます
- dot 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
 
頂いたコメントは、大切に読ませていただいております。





ポイントでお小遣い稼ぎ|ポイントタウン
back-to-top