
白髪頭の監督は、お辞儀をするように下を向き、その顔を両手で隠した。
体が前へ傾いたことで、彼の座っていたパイプ椅子が、キィ……と小さな音を立てた。
静まり返った広い部屋に、その音だけが通って聞こえた。
数秒後に、ピタピタ、と、裸足の足音が近寄ってきた。
自分のすぐ正面で止まるのを、監督は闇の中で感じ取った。
両手をそっと顔から下ろして、目を開くと、白くて細い足が二本、キレイに揃っているのが見えた。
「駄目だ」
監督はかすれた声を上げた。白い足がわずかにずれた。
「お前は、キミカじゃない。キミカならもっと、上手くできたはずだ」
「私には無理です」
か細い声で、彼女は言った。
「私にはまだ、この役はできません。セリフが頭の中で、空回りして、どうしても掴めなくて……」
足先が後ろを向いた。
監督は、膝に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。パイプ椅子がまた、先ほどと同じような音を立てた。
背を向けた彼女を見る。緩いウェーブのかかった栗色の髪が、青いワンピースの腰の辺りまで伸びている。
今度は彼女が、両手で顔を隠していた。肩がかすかに揺れている。
監督は、声を低くして、孫ほどの年の離れた娘を、諭すように話した。
「俺は、お前の才能を、買ってるんだ。できるようになるまで、稽古をつけてやる。キミカがしたように、お前もやればいいんだ。お前にとっては、至極、簡単なことじゃないか」
「だから私は、キミカじゃないのよ!」
彼女の叫びは、がらんとした部屋の壁に当たって、監督の耳に痛く響いた。
「私は、舞花よ。それ以上の何者でもないわ。何度やれと言われても、今の私には、キミカのようにはできないのよ」
監督の口から、大きなため息が出た。固く目を閉じると、眉間のシワが、さらに深く刻まれた。
「よし。ならば、こうしよう。お前に時間をやる。その代わり、俺の提案を呑んでくれ。ここに、キミカを連れてこい」
舞花は大きな目を監督に向けた。監督の口から、低く絞った声が放たれる。
「キミカを、ここに連れてくるんだ。これは、お前にしかできないことだぞ」
監督は上着のポケットから、茶色い手帳を取り出して、その場で素早く走り書きした。
破ったメモを、舞花の手に握らせる。舞花は無言で、そのメモに視線を落とした。
地名と番号が、筆圧でついたへこみとともに、右肩上がりに羅列していた。
「行け。彼女が見つかるまでは、この稽古場へは顔を出すな」
小さく「はい」と言って、舞花は逃げ出すように、裸足で部屋を駆けて行った。
その足音が消えるまで見送ったあと、監督はポケットに手帳を戻しつつ、言った。
「はたして……」
独り言の続きを、監督は胸の内で、短くすませた。
舞花は、あの子に出会えるだろうか……。
そして再び、古いパイプ椅子に、深く身を沈めた。
錆びた椅子の短い悲鳴は、自分の心の声を、忠実に代弁したかのように、監督には思えた。
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開始早々ハードボイルドな展開ですね。
この先予想のつかない展開が来るのでしょうが、
更新毎日楽しみにしています。
頑張ってくださいね。

キミカという謎の存在が、「ああそういうことだったのか」と分かった瞬間、
こちらの冒頭の描き方は、上手い伏線だなと思いました。
また、女優と画家との交流も、とても心温まるものでした。
たくさん作品があるのですね!
これからも読ませていただきたいと思います。

女性らしい繊細でリアルなタッチがまるで現実を見るように目の前に展開されました。
ビックリ。




