
現代ドラマ(全34話)
ノエル(クリスマス)の夜に、
煌めく町と、光る花。
美しい町並みに交差する、人々の想い。
月に何度も沈む島で起きる、一つの事件。

フェリーに乗って30分、本土から16キロと、さほど離れていないその島は、観光地として人気があった。
島、といっても南の楽園ではなくて、船が上陸する港には、たしょう砂浜がある程度で、島を支える地面には、そのほとんどに硬い石畳が敷き詰められていた。
上に建つのは、中世の面影を残した建物。
太い木枠が入り交じり、みな同じような朱色の屋根に、白い壁。
花を飾った出窓に揺れる、レースのカーテン。
ドアには飾り窓がつき、そのすぐそばに、小さなポストが立っていた。
今日もまた、手紙を差し込む音がする。
花から花へ、飛び回る蝶のように、家々を回っては、手紙を投函する郵便屋。
この町の人と心を繋ぐ、大切なライフライン。
23歳の彼には、メルという名前があった。
けれども島の住民たちは、手紙の運び屋である彼のことを、メールボーイと呼んでいる。
もう何年も前から顔見知りなのにかかわらず、メルという本当の名前を知らない。
ごく親しいメルの友達をのぞいては。
友達はメルが本土から、1日100通ほどの手紙を、フェリーに乗って運んでくることを知っている。
また、人口1500人あまりのこの島を、徒歩で駆け巡っていることも知っている。
もし島をまっすぐ横断したとしても、1時間とかからないのだ。
通い慣れた彼の足には、ちょうどよいジョギングコースのようなものだ。
小さな島には昔から、ちゃんとした病院や警察署、そして郵便局が1つもなかった。
メルが勤める本土の局で、今も変わらず、島への配達、そして島にある、たった1つのポストに出された、その手紙の収集を行っていた。
今のところ、島はメルの担当だが、その先代も、さらにその先代の担当者も、島のみんなからメールボーイと名付けられていたらしい。
その名残りで、メルも、メールボーイと呼ばれることに誇りを持って、仕事をしている。
ただ、この島のポストから集める手紙はほとんど、この島の風景を描いた絵葉書か、写真のついたポストカードが主だった。
本土から持ってきた、島民に配る手紙は封筒に入った手紙だったが、島の中央、町役場に設置された大きなポストからは、封に入っていない手紙を持ち帰る。
やはり、観光客が旅の記念に、家族や友人に贈るものだろう。
島の住民はあまり手紙を出さないからかもしれない、この島に郵便局がなかったのは。
メルは自分なりに、そんなことを考えていた。

メルは肩から斜めに吊り下げた革製の鞄に、ポストの中身を収集していた。
町役場のそばの大きなポストだ。
青い海に浮かぶ、朱色の屋根の連なるこの島の、美しい景観を写したカードが多かった。
ちょうどその時、役場の扉を押し開けて、町長が現れた。
メルには気づかず、役場の前の花壇に向かい、花の手入れをし始めた。
しおれた花びらを摘み取って、手の中で握りしめる。
「こんにちは」
メルがそっと声をかけると、「やあ」と応えた。
「おや、もうそんな時間か」
町長はそう言って、町役場に備え付けられた大時計を見上げた。
5時。
役場の壁が、夕日色に染まっている。
「きれいなお花ですね」
「ありがとう。きれいにしていないとな」
町長は黒い髭の生えた口元を、ほころばせながら言った。
「今日も観光客が、人口の3分の1は来たよ。この前でも写真を撮って行くんだ。中においてあるパンフレットと、同じ景色を保つのも大変だよ」
メルも町長に笑い返した。
島を紹介したパンフレットは、メルももらったことがある。
ちょうど島の中央に建つこの役場は、観光客の道案内も兼ねている。
だから島の見取り図が、看板になって役場の前に立っていたり、ホテルやレストランの場所を紹介したパンフレットも、写真付きで、役場で配っているのだった。
「だが、どんなにきれいにしていても」
町長は一度、ため息をつき、続けた。
「アクアアルタにはかなわない。この前はその看板の、半分ほどが海水に浸かった。この島で花がまともに育つのは、あそこの土地くらいだな」
最後のほうは、ひとりごとのようにメルには聞こえた。
あそこがどこかは分からないが、町長が言うとおり、この島はよく海に浸かる。
オシャレに見える家々でも、玄関の内側には、侵入してくる海水をせき止めるための、丈夫な板が置かれていたりもする。
アクアアルタという現象は、月の満ち欠けによって発生するので、それは誰にも止められない。
新月と満月の時に、島の周囲から海水がせり上がり、土地の低いこの島は、あっという間に水に浸かってしまうのだ。
観光客の必須アイテムとして、長靴がよく売れる。
ふだん何ともないので、大して気にしていなかったメルも、ことの重要さに気がついた。
思わず空を見上げる。
よかった、まだ太陽が出ている。
最近は冬になるにつれて月が出るのが早いのだが、今日は夜になっても月は出ない。
そう、今日こそが、新月の大潮の日だ。
アクアアルタの警戒日だった。

いつもなら郵便局で昼を食べ、午前中に整理した宛先ごとの手紙を持って、島へ渡る。
そして配達し終えると、役場のポストを開け、空になった鞄に新しい手紙を詰めて、局に戻る。
大体それが、4時過ぎだ。
だが今、港に向かいつつ、役場の高い位置に取り付けられた時計を見ると、1時間遅れ。
たぶん、ミリのパン屋に寄ったのがいけなかったか。
メルは胃の辺りをさすりながら思い返した。
ミリという名のおばあさんが開いている、小さなかわいいパン屋さん。
毎日のように観光客の足休めとなっている、備え付けのオープンカフェのある店だった。
メルは手紙の配達に立ち寄った。
ミリはその日、新作のパンケーキを焼いていた。
焼き上がり時間ぴったりに、メルが来たのがいけなかった。
メルは根が素直なたちなので、ミリが試食を勧めるごとに、何切れか食べた。
紅茶も頂いた。
観光客の目にはきっと異様に見えただろう、オープンテラスに座る、紺色の制服姿のメールボーイが。
メルはミリの話し相手になり、しばらくそこで過ごしたのだ。
嬉しそうな顔のおばあさんを見るのは、悪い気がしない。
いいことをしたと、自分でも思ったのだったが。
港に着いたのは6時前だった。
町中を歩いている途中で、所々に立っている街灯にやわらかな明かりが灯り始めた。
陽は沈み、おもちゃのように可憐な家々から漏れる光が幻想的になったころ、夕暮れを散歩する観光客にもまれながらも、メルは港に着いたのだった。
いつも思うのだが、こんなにも多くの客、毎日どこからやってくるのだろう。
肌の色も、着ているものも、言葉だってバラバラだ。
外を歩けば人口よりも、遊びに来ている人のほうが多いのではないか。
たしかにこの町は美しい。
夜ともなれば、どこからともなく、妖精が出てきてもおかしくないほど、町全体がキラキラしている。
港の浜から海を見ても、あふれた光で、浅い所は底が見える。
みなもがゆったりと輝いている。
都会に住む人にとっては、それは魅力なのかもしれない。
また観光客がいる限り、売上げが伸び、町の建物は潮風に吹かれて老朽化が進んでも、この経済効果で現状を現状のまま、維持し続けることができる。
どんなにコンクリートの壁が強いと分かっていても、人々は木枠の壁を用意する。
景観をそこねることは、島民も反対しているのだと思う。
メルは停泊しているフェリーを眺めた。
こちらもランプが点いている。
しかし近寄ってよく見ると、フェリーに続くタラップがない。
どうやって上がればいいというのだ。
「6時前だからかな……」
メルはひとりごちた。
フェリーは1日に10往復ある。
次は6時にこちらに着く、あのフェリーがそうだと思うけど……。
黙って立っていても仕方ないので、観光客相手に、夜の海にゴンドラを出す、船乗りを探してみた。
この時間には用意していると、友達に聞いたことがある。
しかし、その船員もいない。
おかしいな、と周りを見渡してみると、いた。
凝った装飾のゴンドラが一艘と、背の高い船夫だ。
「乗り遅れたな、兄ちゃん」
船夫はメルを横目に言った。
「アクアアルタの夜は、フェリーは早出で帰路につくんだ」
メルは吹き付ける冷えた風に、両腕を抱いた。
そのまま見ているとゴンドラは引き上げられ、フェリーのほうは汽笛を鳴らせて出港し始めた。
「今日は夜の部のゴンドラは無理だぜ」
船夫は寂しそうに言いながら、そばの木のくいにゴンドラから伸びた縄を結んでいる。
残念なことに、今のフェリーが10往復目の船だと、メルは知っていた。
そうして、思わず声に出た。
「長靴……」
メルの足もとに海水が押し寄せていた。

用意周到に長靴を持ち合わせているわけもない。
ただ、買えそうな店がどこにあるか分かっていたので、メルは急いでそちらに向かった。
はずむたびに鞄が揺れたが、今は考えないことにした。
とにかく、濡らさないのが優先だ。
ミリのカフェを通り過ぎるとき、彼女が太った旦那と一緒に、オープンテラスの椅子や机を片付けて、店の中に押し込んでいる光景を見た。
これからやってくる大潮のためだ。
旦那は試食し過ぎたのかもしれないな、とメルは少しおかしく思えた。
大きな体で、息を切らせて、仕事に取り組んでいた。
そしてメルは目的の店にたどり着いた。
海水はじわじわと波打ちながら、すでにメルの足首まで沈めていたが、鞄までは届かない。
自分は濡れたとしても、大切なものを守らなければならない、とメルは自覚していた。
ただ、夕方に話した町長は、あの看板の半分は浸かってしまった、と言った。
そうなれば鞄も水に浸かってしまう。
早くどこかへ避難しなければ。
「こんばんは」
メルは屋根から連なる、リボンの絵が浮き彫りにされた看板の店に入った。
入るとき、木の板が水を店から遮断していたので、足を上げて乗り越えた。
店の中はこじんまりとしていたが、所狭しといろいろなものが置かれていた。
鞄、洋服、アクセサリー、ようするに雑貨屋だ。
天井から吊るされたカラフルなシャンデリアが、商品をよりいっそう際立たせている。
メルの目の端に、キラリと光るラメ入りの長靴が映った。
「あれ、メルじゃない。どうしたの、こんな時分」
店の奥から、明るい声が飛んできた。
彼女はリカといって、メルの友達。
幼い頃は本土にいたが、就職してこの島の店に、住み込みで働いている。
たまに手紙を届けると、リカの口から店長の愚痴を聞かされるのだ。
しかし今、店を見渡しても、その店長はどこへ行ったのか、リカ以外に誰もいない様子だった。
「今日、あれの日でしょ。だから店長、もう店切り上げて、下にある商品、2階へ運べって。今、2階にいるわ。メルも手伝ってくれるの?」
「いや」
メルは申しわけなさそうにリカに言った。あの長靴を指差して。
「おいくらですか?」

広い噴水のへりに、男がひとり座っていた。
もう何時間もここにこうして待っている。
黒いスーツに銀縁眼鏡。
眼鏡はダテで、視力はいい。
見えないものまで見えるほうだ、と、自分では思っている。
前を通り過ぎてゆく、街灯に照らされた観光客の表情を、見て見ぬふりして座っていた。
時々、足を組み直し、そ知らぬ顔で。
ピチャン、ピチャン、と水の跳ねる音がする。
後ろの噴水からじゃない。男のひざ下まで、アクアアルタが迫ってきていた。
通行人が波を起こす。それにも動じず。男の長い足は黒いブーツで守られていた。
男はホテルの警備員だった。
ラジ、という名前だが、それは本当の名前じゃない。
32歳といっていたが、もう少し若いかもしれないし、もっと年をとっているかもしれない。
誰もラジに気をとめないし、ラジもそれでよかったのだ。
ただひとり、警備をするホテル経営者の、後継ぎ息子以外は。
息子の名前はキトという。島でいちばん、興業成績を収めているホテルの御曹子だった。
島にはいろんな人が来る。
ただ観光だけじゃない。よからぬことを考えている者もいるかもしれない。
息子の誘拐を恐れた身内は、ラジにボディーガードを任せた。
前例や、そんな素振りはいっさいない。
にもかかわらず、ラジをガードに付けたのは、他ならぬラジ自身が仕掛けたことだった。
ラジは望みを叶えるために、切れる頭を使うのだ。
しかし、上手くいくとは限らない。
今もこうして、わがままなキト坊ちゃんに振り回されているのだから。
ラジは通りの向こうの、花屋を見た。
表で待ってろ、と言ったきり、坊やはそこから出てこない。
ラジの腕時計は、6時を回っていた。
「もしもし……局長ですか?」
電話をかけながら、隣のふちに座った男を、ラジは見た。
年はハタチ過ぎくらいか、その格好には違和感があった。
紺色の制服、襟のふちや袖口には、赤いラインが入っている。
大きな鞄を大事そうに抱え、見えない相手に電話し続ける。
「すみません、そういうことなので、帰りは明日、フェリーが来る9時過ぎくらいになると思います。こちらは速達はないので大丈夫だと。はい、僕はどこかに泊まりますので。本当に、すみませんでした」
電話を切って、ふっと肩を落とす。その足には、ラメの入った長靴が見えた。
メールボーイだ。
ラジの直感はラジの心にこう言った。
この男を使うか。キトを喜ばせられるだろう。
「この近くに」
ラジは唐突にメールボーイに話しかけた。
「ホテル・モンフルールがあるだろう? あそこの中のレストランは、三ツ星シェフの絶品だ。朝食はルームサービスで、ただっていう噂だぜ」
メールボーイはふと丸い目をしてこちらを見たが、「それは……そうですか」と言って、ひざに手をつき、立ち上がった。
歩き出そうとする彼の背に、ラジは声をかける。
「モンフルールのシングルは、1泊4千円と格安だ」
すると彼はラジを向いて、
「どうもありがとう。この近くですね、行ってみます」
と笑顔を見せた。
「モンフルール……あの変わった名前のホテルだな」と呟きながら、波を立てて歩いて行った。
ラジも微笑んで見送った。
厳密にいうと、ここから一番近いホテルは、モンフルールじゃない。
しかしメールボーイは行くだろう。キトのホテル、モンフルールへ。
そのために、ラジは2回も言ったのだ。
メールボーイが見えなくなったあと、花屋の扉がドアベルを鳴らして開いた。
15歳のかわいい坊やが駆けてくる。手に豪華な花束を持って。
「待たせたね、ラジ」
透き通った声に、ラジは首を横に振った。
「いいんですよ。それより、その花束は」
「これはロビーに飾るためだよ」
にっこり笑うキトを見て、ラジは心でこう言った。
花屋の愛しの店員に、キト坊ちゃんはぞっこんだ。
この様子だと、まだ当分、俺は振り回されるだろうな。
この噴水のへりが、俺の指定席にならなければいいが。
「帰るよ」
キトが急かすので、ラジはすっと立ち上がった。そして水をかき分けて歩きながら、
「そうそう。メールボーイの男をひとり、ホテルに誘導させました。ラメ入り靴の男ですよ」
と言うと、キトは立ち止まり、とびきりの笑顔でラジを見上げた。
しかしそれも、ラジには計算済みだった。
眼鏡のふちに手をかけ、直すと、街灯の反射でキラリと光った。

ルームサービスのクロワッサンとミルクを胃に収めたあと、メルはチェックアウトした。
ロビーの柱時計は7時を刻んでいる。
9時入港だから、しばらくまだ時間があるな。
よく磨き上げられた、つややかな木の入口ドアを開くと、すぐ外に、掃除をしている2人組を見た。
ホテルへ続く短い階段の、白い手すりを雑巾がけしている、背の高い男。
柄の長いモップで、石畳の水を拭き取っていた、細身の少年。
2人はメルを通すために、階段の両脇によけ、立った。
「良い1日を!」
少年の透き通った声がメルを見送る。通り過ぎた後ろから、囁くような会話が聞こえた。
「ほら、彼が昨日、ラジの言っていた……」「かわいい長靴じゃないですか」
歩きながら、メルは町の様子を眺めた。
まだフェリーが来ていないので、観光客の姿は少ない。
今、写真を撮っている彼らは、昨日からの泊まり込みの客だろう。
ひと晩水に沈んで、今朝早くに浮上した町は、雨上がりの様子に似ていた。
所々へこんだ石畳に、水溜りができ、青い空を映し込む。
観光客は彼らの言葉で喋り合いながら、その光景を写真に収めて、楽しんでいるようだった。
メルはミリのパン屋が建つ通りを抜けた。
足を休めず眺めると、ドアにはCLOSED(閉店)と書かれた札が下げられていたが、もう表には机と椅子が持ち運ばれて、テーブルクロスもセットされていた。
この様子なら、ブランチには客を呼び込めるだろう。
そのまま路地を歩き続け、メルは役場前の広場に着いた。
人通りはまばらだったが、バックパックを背負った旅行者が2、3人、役場前に立つ案内板を眺めていた。
遠目に確認してみると、その看板から雫が地面に落ちていた。
上のほうは乾いていたので、昨日、どれくらい浸水したのかは、分からなかったが。
メルはポストに近寄って、ポケットからカギを取り出し、裏蓋を開けた。
10通ほど新たに投函されている。
すべてを鞄に詰めたあと、役場の時計を見る。
7時半。

ノエル(降誕祭)が近づく季節になると、圧倒的にガラス製品が増える。
陳列棚にもこれでもか、というくらい、積み重ねた色とりどりのオーナメント。
お互い触れるとカチャカチャ鳴って、割れやしないかとヒヤヒヤしてしまう。
でも、店舗が狭いので、個別に飾る場所もないのだ。
本当は2階のほうにも並べたいけど、2階は住居で、1階よりもさらに狭いし……。
リカは、紙の箱から取り出した、50センチほどのツリーを眺めた。
もみの木そっくりに作られた、ナイロン製の葉が伸びている。
両手に抱えて、表通りに張り出したショーウィンドーの中に置く。
見本として、いくつかのオーナメント、丸いのや、尖ったのや、星型の、を、金色のリボンで吊り下げる。
その上から、ふわふわしたやわらかで長いモールを巻きつけようとしていたら、窓の向こうに見慣れた姿が映り込んだ。
優しい目が笑いかける。
リカはすぐにドアに向かった。ドアを引き開けると、すぐ目の前に立っていた。
「おはよう、メル」
「おはよう。アクアアルタはどうだった?」
聞かれて、リカは肩をすくめて見せた。
築100年は経っているであろう、店構え。
水が入ってこないよう、入り口を木の板でガードしたけれど、またいつものように、陳列棚の下2段目まで浸水してしまう。
ここ最近は、ストーブを焚いていても、歪んだ建物は隙間風が冷たい。
うかない顔のリカを見て、メルは仕方なそうに笑い、「手伝うよ」と言ってくれた。
「そういえば、ロイをどこかで見なかった?」
リカは聞いた。
ロイというのは、この町の町長のひとり息子で、リカやメルとも幼なじみ。
本土の同じ小学校にも通った仲だ。
「さぁ、最近、見かけないな」
「こんな日はよく、手伝いに来てくれてたのに……」
リカはレジカウンターの奥に行き、壁に貼り付けてあるカレンダーを見た。
たしか前回の満月の日には、来てくれた。一緒に荷物を棚上げしてくれた。
でも、それから一度も見ていないような……。
「おかしいなぁ。島に毎日来ているメルも、ロイを見かけないなんて……」
「本土に行っているのかもしれないな。ロイは勉強に熱心だから」
メルの言う通り、ロイは昔から博識だった。将来は医者になりたいと言っていたほどだから。
でも、とリカは思う。
何も言わずに行っちゃうなんて……。
「町長さんも、何も言ってなかったよ。今度、聞いてみようか」
「お願い」
リカはメルに頷いた。
メルが来て10分もしないうちに、最初のお客がやってきた。
海沿いに店を構える、フラワーショップ・ナヤの店員、ナヤさんだった。
このナヤという店名は、彼女のお父さんが、彼女が生まれる前から、気に入って付けた名前だったが、お父さんは病気で倒れ、かわりに、ナヤが店に立っている。
文字通り、ナヤのナヤが来たわけだ。
「いらっしゃい、ナヤさん。そうだ、ナヤさんのお店、アクアアルタは大丈夫でした?」
リカがカウンターから出てきて言った。
「うちは被害はなかったわ。ちょっとだけ浸入したみたいだけれど、兄が水はけをやってくれたし」
ナヤは何も心配なさそうだった。
ナヤの兄は、本土から自分の店に、生花を仕入れる仕事をしている。
メルも時おり、フェリーの中で姿を見たことがあると言っていた。
落ち着いた、30歳くらいのおとなしい人だ。
「今日はブーケ用のリボンを買いに来たんだけれど、いつもの、レースの柄、あるかしら?」
「はい、ただいま」
元気に応えたリカは、ふとメルと目を合わせた。
メルは控えめに微笑むと、ドアのほうへ歩いて行った。
心の中で、またね、と呟き、リカはリボンを探しにかかった。
あっ、そうだ。レースのたぐいは、まだ2階だ。
もー、店長ったら、私だけに仕事押し付けて、いつまで下りてこない気かしら。
ふくれっつらをしたリカの目の先に、不意にショーウィンドーのツリーが映った。
形よく、ゆるやかに、長いモールが巻かれていた。

本土に帰ってきたメルは、すぐさまその足で郵便局へ向かった。
上司の局長は、メルの今回の失敗を、言葉で叱責しなかった。
40過ぎで、メルの2倍ほど年上の女性だったが、涼やかな顔でメルを見るとこう言った。
「始末書、書いて」
あとは言われるままにメルは従った。
午後からの仕事は取り上げられ、自宅に帰された。
表には感情を出さなかったが、局長はかなり怒っていたに違いない。
メルが帰り間際に、冷たい態度で言ったのだ。
「明日からはちゃんと、気をつけること。でないときみ、メールボーイの座を取り上げるからね」
凝ったデザイン性も見られない、四角い箱のように見える家々が立ち並ぶ住宅街を、メルは歩いた。
そのうちのひとつ、シンプルなドアノブに手をかけ、開くと、狭い玄関ホールに、なぜか木馬が置かれてあった。
「ふーん」とメルは、分かったような分からないような声を出し、リビングに向かった。
そこにはメルの父がいた。
クレパスを何本も床に散らばせて、立てかけたスケッチブックに殴り書きしている。
ゆっくり近づいたメルにも気づかない様子だった。
よく見てみれば、メリーゴーランドのスケッチだ。
「玄関の」メルが喋ると、父は「うわぁっ」と驚いて、手を止めた。かまわず、メルは父に話した。
「玄関のポニーに色を塗るつもり?」
「はっはっは」白い歯を見せ、父は笑う。
「あれはガレージから引っ張り出してきた。ベイビー・メルのお気に入りだったじゃないか」
「そうだっけ……?」
メルの父はデザイナーだった。
このたび舞い込んだ仕事は、どうやら遊園地の花形、メリーゴーランドの馬をデザインするという、ちょっとマニアックな内容らしい。
馬か、そういえば家にも……と、父は木馬を参照に出したそうだ。
「これは移動式遊園地用の、小さなメリーゴーランドだ。どの地方を回るかは、まだ聞いてないんだが、どうも時間がないらしい。電飾技師の方と話したのだが、夜も目立たせるために、馬の目にランプを入れるの、どうだろうね?」
父の提案に、メルは頷かずに小声で言った。「それは子供が泣いちゃうよ」
「まあ、メルなの?」
キッチンのほうから声がして、メルの母が姿を見せた。
「昨日の晩はどこにいたの。夜出歩くのは感心しないわね」
「アクアアルタがあって……」
メルは言いかけたが、面倒になって、首を横に振った。
「もう、いいや」
「いいやじゃないでしょ」
母は大げさに心配している。
「テレビのニュースで言ってたわ。夜の道をフラフラしてると、変な人に怪しい花を売りつけられるの。マフィアのような連中よ。捕まった組織のひとりが、インタビューで言ってたわ」
たしかに、この都会の治安は良くない。
そのため、夜歩くのはボーイスカウトくらいだろう。
だけど花を売りつける、というのは初めて聞いた。新手の詐欺だろうか。
「その花っていうのは、どんな花なの?」
メルの問いに、父が答えた。
「夜光るらしい。だから夜に売られるんだが、その発光している花びらを食べると、幻覚症状を見るらしい。分からんが、捕まったひとりが言っていたのは、ライン……そう、ラインが目に映るそうだ」
本当に、よく分からない世界だな。メルは思った。
犯罪を取り締まる警察官と同じ、国家公務員のメルとしては、そんな組織を野放しにしているのは、痛ましい、許せないことだな、と、そう強く思った。

モンフルールの広いロビーで、キトはひとり待っていた。
深夜12時で誰もいない。
古めかしい柱時計の音だけが、耳に、心に響いてる。
最終チェックインの時刻も締め切られ、もう観光客は入ってこられない。
泊まりの客は寝ているだろう。昼間歩いた町を、夢に見ながら。
キトはどうしても眠れなかった。
分厚いガウンの前を合わせて、壁際の長いソファに座ったり、立ったり、位置をかえて座ったり……を繰り返していた。
いつもならそばにいるはずのラジが、そばにいないということが、キトには空虚なほどに思えた。
大きな男に付きまとわれるのに慣れていたほうが、おかしかったのにな……。
キトは静かに目を閉じた。
数時間前、ラウンジでラジと話したことを振り返ってみる。
ラジはあまり自分から話したがるほうじゃないのに、その時、キトに聞いてきた。
「お坊ちゃんは、このホテルを継ぎたいと、もうお祖母様には言ったのですか?」
ホテルの総取締りは、キトの祖母の、マリだった。
マリの娘は、キトを残して、キトの知らない男と2人、どこかへ行ってしまっていた。
キトはマリに育てられ、ホテルを手伝い、そのかたわらで、地元の小学校にも通い、家業と勉強を両立していた。
ラウンジで、キトは話した。
小学校はあっても、島には中学校がない。
船で毎日本土に通うよりも、僕はお祖母様の力になりたい。
自分を育ててくれたこのホテルを、僕は守っていきたいんだ。
ラジは自分の眼鏡を外し、少し遠くを見つめるような目をして、「ご立派ですね」と囁いた。
「いずれモンフルールはキト様のものになるでしょう。あなたはホテルを離れない。しかし週末になると決まって同じ時間、深夜にどこかしら出向いてゆくマリお祖母様の、その行動をも、引き継ぐことにするのですか」
キトが就寝のため、ホテルの一角にある自室に入っているあいだ、ラジには自由行動が与えられていた。
キトは、その時間帯にラジも眠りについていると思っていた。
けれども、もう何週間も、ラジはマリを見張っていたのだ。
身内の不審な行動を、自分よりも、赤の他人が知っていた。
キトはラジに指令を出した。
「週末出て行くのなら、今日だ。つけて、教えてくれ。僕には知る権利がある」
柱時計が1時の鐘を打ち鳴らした。
大きな入口ドアがあき、外の冷気と一緒に、ひとりの男が入ってきた。
夜の闇に紛れるような、黒いスーツを着た男。
細いけれど、しっかりとした、長身の男。
ラジだった。
ロビーに灯るランプの光を、眼鏡のふちに滑らせる。

町役場の一番奥、ふだん観光客も通らない、細い通路を使って、町長はやってきた。
応接間だった。
アンティークな革張りの椅子に座り、すでにマリが待っていた。
手前の机に、膨らみのあるスカーフがのせられている。
「町長、聞いてください」
マリの低い声がいつもと違う。
町長は入ってきたドアの取っ手を引き寄せた。
腕時計を見る。深夜1時過ぎ。
夜勤をしている職員たちには、週に一度のこの時間、昔なじみと話に花を咲かせるから、邪魔はしないように、と言ってある。
職員たちも、その友達が日中は客商売をしているマリであることを、よく認識している。
ともに時間の取れない2人は、こんな夜中に会うしかないのだ。
「どうした、花の質でも落ちたかね」
「いえ、そうじゃありません。じつは先ほど、畑で男に会いました」
町長は神妙な面持ちで、マリの話を聞いていた。
頭の中で、映像となって打ち寄せる。
マリはいつものように、ホテルを忍び出て、小学校のほうへ向かった。
週末の観光客の入りは多い。
顔なじみに見られても、散歩をしていたと言えばいい。
もしも誰か、跡をつける者がいたとしても、この群衆の中で見失わないのは、プロの筋の者だけだ。
そしてマリは校舎の裏に回って行った。
さすがにこの辺りには、誰もいない。
ここに畑を作ることは、町長の計画通り、上手くいっていた。
校舎は少し高台に建っており、裏の畑は陰になる。
また昼間通う小学生たちには、その価値は分からない。
まともな道を歩む公務員の教師たちにも、その花がどんな意味のあるものか、認識できないはずだった。
町長も、学校視察に何度か来たが、畑のすぐ向こうは、切り立った崖となり、子供たちにも近づかないよう、指導しているということだ。
それがその時、誰か来た。
マリが水やりをしていたときだ。
暗がりでよく見えなかったが、背中に大きなバックパックを背負った男だった。
「モンフルールのマリだな。俺はデラの使いの者だ」
男はびっくりしているマリに、告げた。
「うちの組織のバカどもが、何人か捕まったのは知ってるだろう。だがデラ様は、この場所のこと、そして花の流通の元を、誰にも知らせていない。よってこの計画は、続行となっていた。だが、今回でそれも最後だ。次に花が運ばれたのを確認ののち、デラ計画の指令を出す」
「今回で最後なんですか?」
「そうだ。今すぐお前は、指定分の本数を届けろ。今すぐにだ」
「分かりました」
そして男は去って行った。
デラ、という名を知らない人間が、口にするような話ではない。
マリは急いで花を切り、首に巻いていたスカーフでくるんだ。
そして現在、ここにいたる。
町長は言った。
「すぐ、と言っていたのか。しかしながら、出港は9時過ぎだ。それまでには手配しておこう。セドに、電話しておかなければ」
町長はポケットから取り出した電話に向けて、短く喋った。
「ああ、セドか。すまんな、寝ているところ。明日の朝、一番の船で、本土に送ってもらいたい。それじゃあ。リボンを忘れるなよ」
電話を切ったあと、町長は「これで最後か」と言って、机の上からスカーフを剥いだ。
バラによく似た花だった。だが、花びらのふちが白いラインで色づいていた。
町長は入り口に近寄り、部屋の電気のスイッチを切った。
「うん……たしかに、質は落ちていないようだな」
花のあった場所に、白く、花びらの形にそって、光が浮いていた。

夜中のひっそりとしたラウンジで、子供を泣かせているところを見られたら、変に誤解されてしまうだろうな、とラジは思った。
幸い、2人以外には誰もいない。それでも、明々と灯るランプの光が、キトの頬を光らせた。
いつマリが帰ってくるか分からないので、ラジは要点だけを実直に語った。
マリの尾行をし、着いたのは畑。幻想花の栽培地。
ラジは声を知られているので、町を歩いていたバックパッカーを買った。
マリに向かってこう言え、と教えた。
彼は自分でも何を言っているか分からなかっただろうが、よくやってくれた。
謝礼に、モンフルールの離れた裏通りに建つ、小さなホテルを紹介してやった。
この金で泊まれ、と、たしょう多額の紙幣を渡して。
そのあとマリを追いかけて、町役場へ来たラジは、役場の受付でマリを案内する職員の声を聞いた。
「ああ、こんばんは、マリさん。奥の応接間でお待ちください。すぐ町長をお呼びしますね」
それからラジはホテルに帰った。
これだけの証拠をつかめたのは、幸いだった。
あとは町長を狙い、吐かせればいい。
「ありがとう、ラジ。マリを変な花から引き離してくれて」
涙を拭いながら、キトはお礼を言った。
「いつから、お祖母様が怪しいと思っていたの?」
「月曜の朝に、臭うんですよ。洗ったあとの、薄れた匂いが。嗅いだことのある人間にしか、分からない花の香りです」
「嗅いだことのある……? ラジ、あなたはいったい……」
その時、ラジは椅子から立った。
「いったん本土に戻ります。明日の朝、フェリーの中で捜してみるつもりです。すぐに届けさせるようにと、言いましたからね。目に見えませんが、分かるはずです」
「ラジ、分かったよ。あなたは警察官なんでしょう」
キトも立ち上がり、不安そうにラジを見上げる。
ラジは少し笑ってやった。
「いいえ、違います。じつは、組織の一員でした。牢獄との交換条件に、インタビューに答えたり、こうしてデラを追っていたりしているんです。本土で嗅いだ香りをつけたら、この島にやってきました。それから、あなたのお祖母様を嗅ぎつけて……でもこのことは、内緒ですよ」
キトはまっすぐな瞳で頷いた。
「お祖母様に近づくために、僕のボディーガードとして、雇われたんだね?」
この坊やは賢いな、とラジは思った。
マリ自身のボディーガードになっては、マリは警戒して思うように動いてくれなかっただろう。
そのために、キトを利用した。
突然のことで、まだよく分かっていないかもしれないが、彼はほっとした顔をしている。
だが、まだ、まだだ。事件には、動機がいる。
この町の町長が巻き込まれた理由も、キト、きみのお祖母様がさせられているそのわけも、俺がこれから、あばいてみせよう。
幻想花のラインを消して、世の中のために、この身をつくそう。

セドは受話器を耳から離し、電話を切った。
他ならぬ町長の頼みだ。やらないわけにはいかないだろう。
それに、その報酬が嬉しい。
どんなお得意様か知らないけれど、町長に大金を振り込む。
それを自分の店で売った花だと、うそぶくだけで、分け前をくれる。
本土への運び屋になるのは、ちょっと面倒だったけど。
いつもの場所で待っている、取引人に渡すついでに、本土の市場に出た花々を、自分の店で売る用に仕入れる仕事をするには、一石二鳥だもんな。
妹も喜ぶ。
セドは、隣のベッドで静かな寝息をたてて眠る、ナヤを見た。
ちょうど、リボンがきれていたが、妹のナヤが、雑貨店から買ってくれた。
明日の朝、町長から引き継いだ花をブーケにして、レースのリボンでくるめば、いいのだ。
小さくてかわいい、素敵な贈り物の完成だ。

その日のナヤは朝早くから、リース作りの仕事に追われていた。
花屋に続く少し奥まった部屋の一角で、椅子に座り、小さなテーブルの上で手を動かす。
花屋は辛い水仕事だ。
水を張った足もとのバケツに、たくさんの切り花がひたっている。
そこから必要な本数を取り、テーブルの上で、細い茎を編んでゆく。
丸く、丁寧に、形よく。
ノエルの近づくこの時期に、毎年行うリース作りだ。
人々はこれをドアに飾ったり、窓に吊り下げたりして、ノエルをお祝いして過ごす。
小さくて、赤い実のついたリースや、中央に金色のベルを繋げたリース、全体にリボンを巻きつけたリースなど、ナヤのセンスが表われる。
先ほど兄がやってきて、小さなブーケを作っていた。
朝、起きたと思ったら、すぐにどこかから花を摘んで戻ってきた兄。
船の時間からして、本土から仕入れてきたものじゃない。
ナヤの知る限り、この島にはアクアアルタのせいで、立派に花を開かせるものはないと思っていたけど。
兄は入手元をナヤにも教えてくれない。乱獲が起こるとまずいから、とか。
花好きのナヤが見ても、その花がどんな種類の花なのか、よく分からなかった。
図鑑にも載っていない、それは貴重な花なのだ。
花びらが隠れるほど、立派に大きくリボンを巻いて。船の時間に合わせて、店を出て行った。
兄の帰りは昼過ぎくらいになるだろう。
その時は、本土の市場で買い付けた、たくさんの花を、両手に抱えてくるはずだ。
この店でたくさんの花に囲まれていることが、ナヤの楽しみのひとつでもあった。
売上げは、観光客より、地元の人たちのほうが、よく伸びる。
花瓶に飾って部屋に置いたり、窓際にプランターで設置したり。
町を歩くと、花に彩られた家をみかける。
それでも、一番のお得意様は、3日に一度は訪れる、モンフルールのキトだろう。
ホテルの広いロビーに映える、大きな花を何本も束ねて、店のレジに並ぶのだ。
バケツの花がなくなったので、ナヤは店舗のほうへ向かった。
壁一周をぐるりと取り囲んだ、たくさんの花の中から、直感で選び、バケツに補充する。
その時、一瞬だったが、見覚えのある顔が、窓の外を通り過ぎた。
ここ最近、姿を見なかったあの人は、そうだ、たしかロイという名前だった。
医学の勉強をしたいから、と、本土の学校に毎日通う、大学生。
本土に引っ越すこともなく、真面目に島から通っていた。
この町の町長のひとり息子だ。
ナヤはもう一度、奥の間に行き、リース作りを黙々と続けた。

ロイは昼前にフェリーに乗って島へ上陸した。
海沿いのフラワーショップ・ナヤを通り過ぎ、目的地へ足早に向かう。
冷たい潮風がコートの裾を翻した。
リボンの装飾が浮き彫りにされた看板の、小さなお店。
ショーウィンドーに飾られた華やかなツリーに見向きもせず、ロイは入口ドアを開けた。
「いらっしゃーい」
陽気な出迎えの声がした。
店の店長がひとり、レジの前に立っている。
男だけど女物のエプロンを巻いて、顔にも強い化粧をしている。
長いまつ毛をつけた目が、ロイを品定めするかのように、じっとりと動いた。
「リカはいますか」
ロイが聞くと、店長は両手をパチンと叩いて、低い声でまくしたてた。
「ロイじゃないの! 島には帰ってきていたの? リカを心配させるんじゃないわよ。電話にも出てくれないって、スネてたわよ」
この島には珍しいニューハーフの店長。2階で一緒にリカを住まわせているというが、男にしか興味のない男なので、ロイはだいぶ安心していた。
「リカはいますか」
ロイはもう一度、同じセリフを突きつけた。
店長は片手をあごにかけ、微笑んだ。
「教会前の広場にいるわ。カートを出して、店番してもらってるの」
「ありがとう」
簡単にお礼を言って、ロイは店を出ようとしたが、不意に立ち止まり、店長を振り返った。
「先日のアクアアルタは、手伝いに来れなくてすみません」
いいのよ、という感じで、店長は笑いながら、片手をロイに振ってみせた。

虹色の、斜めにストライプが入った派手なワゴンで、リカはその日、営業していた。
肌寒いけれど、雲の少ない青空に、ワゴンからつけた風船が揺れている。
丸いの、星型の、種類はさまざまだったけど、どれも同じメッセージが印刷されている。
『Happy Noel!』
リカはニットの帽子をかぶり直した。
ノエル当日も、この場所で販売することになっている。
この帽子じゃ寒いかな……。
ちらり、と後ろの教会を見た。
ミサを終えた人々が、両開きの木のドアから流れ出る。
高く組まれた屋根の下で、備え付けの鐘が、重い音を鳴らした直後だった。
「こんにちは、奥様」
リカは通り過ぎる婦人に声かけを行う。
「いい天気ですね」
会釈を交わして、人々は家路へと帰ってゆく。
ちょうど正午だった。
広場にはまばらに、観光客がいる程度だ。多くの人は、食事時だろう。
リカもひとまず休憩しようと、ワゴンから伸びた風船の紐を、かき集め始めた。
しかし遠くから歩いてくる男の顔を見つけたとたん、リカの手から風船がはなれた。
強い風が吹きつけて、風船が空に上がってゆく。
「あっ……」
一瞬のミスに、リカが声を上げると、近寄ってきた男はそれを声に出して笑った。
「ロイ!」
リカは両手を腰に当てて、言った。
「大学に泊まり込みで勉強してたって、そう言ってくれればいいじゃない。もし本当にそうだったら、ね!」
リカの半信半疑の視線を受けて、ロイは少し俯いた。
「違うのね」
リカがそっと呟くと、ロイは一度、頷いてから言った。
「この前親父に、医者は諦めて次期、町長になれと言われた。もう20年近く務めてきたから、そろそろ跡取りを見つけたいんだろう。その時いろいろ聞いたけど、それがどんなことかは、今は言えない。この町の存続に関わる、大事なことなんだ。俺は受け入れなかった。親子喧嘩で決まりが悪くて、島に帰れなかったんだ」
リカは眩しそうに目を細めた。
ロイの顔の近くに太陽がある。ロイの表情がよく見えない。
「それでも俺はこの島を守りたい。自分が町長にならなくても、島のみんなには幸せでいてもらいたいんだ。俺は親父の目を開かせようと思ってる。直接言うんじゃなくて、ある方法で。効き目があるのを願うけど……」
ロイの手がリカの腕を取り、引き寄せた。
「リカ、何も心配しなくていいよ。だけど俺のことはもう忘れてほしい。今までずっと、ありがとう」
リカにはどういうことか分からなかった。
ただ温かいロイの腕に抱かれて、ふと周りを見ると、言葉の通じない観光客が、リカとロイに拍手を送っていた。
おめでとう、おめでとう、片言の単語が2人を冷やかす。
ロイは後ろに下がりつつリカを放した。そしてそのまま振り返ることなく、来た道を戻ってゆく。
意味の分からないまま、リカはなんだか悲しくなった。
さっきまでロイが立っていた場所に、見たことのあるレースのリボンが落ちていた。
どれくらいそうしていただろう。
突っ立ったままのリカの元に、紺色の制服が走ってきた。
メールボーイのメルだった。息を切らせて、リカに言った。
「リカ、さっき、ロイに会ったよ。親父さんと喧嘩して、帰ってきてなかったんだって。これから町長に会いに行って、ロイのことを聞いてみようか?」
「いいわよ、メル。もう会ったの。町長に聞きに行ってくれなくても、いいわ」
リカはメルに首を振った。けれどもメルは、下げていた鞄の中から手紙を一通取り出して、
「だけど町長宛てに、配達があるんだ。ロイから直接、受け取ったんだ」
と言った。
「見せて!」
あわててリカが取り上げようとしたその手を、メルがぴしゃりとはたいた。
「だめ! 僕を誰だと思ってる、メールボーイのメルだぞ。宛先に届けるのが、僕の仕事だ」

「あれ、珍しいですね。昨日もいらしてたのに、連日いらっしゃるなんて」
町役場の夜間職員は、昨日と同じ時刻に訪れた、マリに向かって声をかけた。
「ええ。ちょっと相談し忘れたことがあって。難しくて、電話じゃ言えないのよ」
控えめに、マリは笑った。もうおばあさんだしね、と付け加えて。
「そうですか、ちょうど町長もまだ役場に残っておりますし、また応接間のほうでお待ちください」
職員に促がされ、マリは昨日と同じ部屋に入った。
打ち合わせた通り、2人の密会が始まった。
「しかし、これからどうなることでしょう。私も、頂けるものは頂かないと」
マリが囁く。町長も、そっと声のトーンを落として話した。
「ホテルがあることは、この島の宝だ。観光客頼りの、島一番の収入源だからね。潰れることはないだろうが、デラ様の援助なくては、心もとないな」
「おっしゃる通りで。私も、いずれは孫息子のキトに譲る身です。デラ様との繋がりも、あの子に受け継いでもらうのは、少し気が重たいことですが。あなたは、もう打ち明けられたのですか?」
「ああ、先日、言うには言ったが。幻想花のことを話すと、あいつも医者の卵だ。ものすごい批判にあったよ。光る花びらを食べると、どんな後遺症が待ってるか分からない、と。さらに食べ続けると、中毒になり、どんどん花を欲するようになる。まあ、そのため、本土でよく売りさばけるのだがね」
町長は革張りの椅子に深く身を押し付け、さらに声を低くして言った。
「アクアアルタのため、島で花は育たないと、警察は考えているそうだ。デラも悪知恵の働くやつだ。そのアクアアルタのために、我々がどんなに頭を悩ませているか。それを知り、デラは引き換えに金をくれる。あと数十年もしたら、この島は完全に海の中に埋もれる日がくるだろう。それを防ぐために、金がいる」
「防水壁を建てる予算は、あとどのくらいですの?」
マリが小声で尋ねた。
この島の沖、海底に、水の浸入をおさえる壁を、建てるのだ。
それはふだんは目につかない。海の中に沈んでいて、満月と新月の大潮になると、壁が波の高さと一緒に浮上して、島を取り囲み、アクアアルタから守ってくれる、という建築物だ。
町長は憂鬱そうな声を上げた。それに、マリが提案する。
「島民に、寄付を募っては。彼らもこの町の一部でしょう。協力して、町を守りたいと言うはずですわ」
町長は首を縦にしなかった。それには複雑なわけがあった。
アクアアルタも、この町特有の、すなわち観光の目玉となっていたのだ。
町長としては、水の浸入を防ぎたい。
けれども、そのイベントをなくしてしまいたくもない、板ばさみの状態だった。
結局は、島が埋もれる前に、壁を建てる費用を用意しておかなければ、という思いが勝ったが。
「昼過ぎ、メールボーイから手紙がきてね」
町長はズボンのポケットから、しわしわになった封筒を取り出した。
宛先だけ書かれた、普通の封筒だった。マリに手渡す。
「開けても?」
問いかけに、町長は頷いて答えた。
「ああ、ロイからだ。たぶん、幼稚なイタズラだと思うが。そう、たんなる脅しのいっかんだ。本人に会うまで、私は信じないことにしているよ」
マリは封筒を開き、中のものを取り出した。
そこには便箋は1枚もなく、かわりに薄っぺらい、小さな花びらが入っていた。
封筒と同じく、しわの線をたくさんつけて。
「これは……」
見慣れているマリには、すぐに分かった。
このふちどられた、白いライン。夜に光る幻想花だ。
いったいなぜ、どこでロイはこんなものを……。

夜12時ごろに起こしてくれ、とゴンドラの船夫には言っていたので、眠いながらも、ロイは目を覚ますことができた。
浜から少し沖に漕いだ場所。
そこからは、本土と島の両方が見える。
ロイはそれまで寝そべっていた、赤いビロードの長椅子から、上半身を起こした。
揺れるゴンドラの中で、2つの町を見比べる。
本土は強い、都会の明かり。
ビルや電波塔の白々とした光が、夜なのに昼間のように放たれている。
それに比べて島のほうは、ぼんやり灯るガス灯のともしび。
たくさん点いてはいるけれど、やわらかに広がる、淡いきらめき。
ロイはよく澄んだ冬の空を仰ぎ見た。
島寄りに、細い月が浮かんでいる。
満月だったら、島の明かり具合に似ているだろう。
島は毎晩、月のようだな。ロイは思った。
「島に着けてくれ」
船夫に言った。
「ありがとう。ちゃんと料金は支払うよ」
「頼みますぜ。ずっとこうしてたんじゃ、商売にならねえ」
船夫は長いオールで漕ぎ出した。
先頭に立って、バランスよく左右から漕ぐ。
どいつもこいつも、ロイは心の中で呟く。
お金が本当に好きなんだな。

上陸して、人の間を縫うように歩いた。
初めて来る観光客なら、迷子になりそうな裏通り。
細い路地が迷路のように連なる場所。
ノラ猫1匹歩かない暗い小径で、ロイは立ち止まった。
ここからだと、空も狭い。
遠くに街灯があるくらいで、手の平を広げてみても、形はあやふやだ。
ロイは地べたにしゃがみ込んだ。
両足をまっすぐと放り出す。
冷えた石畳が体温を奪う。
ロイはコートの前ボタンを開けた。
内ポケットから、ハンカチにつつんでいたものを取り出す。
暗がりに浮かぶ、光の花。
薄い花びらのふちが、ほんのりと光を放っている。
ロイの指が光っているふちを捕らえた。
そのまま引くと、簡単に離れた。
なぜ発光するのか、分からない。
ロイはその花びらの1枚を、裏返したり、息を吹きかけたりして、確認してみた。
いくら博識だからといっても、科学の力では解明できない。
この花の構造を、ロイは憎らしく思えた。
光る箇所を食べなければ、体に害はないという。
昼間、暗闇にしても光らない。
夜にならなければ、その本性を表さない。
月の花。
ロイは花の香りを嗅いだ。
月の花。
闇夜に浮かぶ、月の花。
ロイは小さく口を開けた。
花びらを近づけて、手が止まる。
目の先に、光るラインがはっきり見える。
ロイはさっと目を伏せた。
花びらを挟んで、歯と歯が重なる。
花の香りと同じ、ほんのり甘い味がした。

宇宙空間にキリトリ線が現れた。
ミシンで縫ったような点線だ。周りをぐるりと取り囲む。
無重力の波を泳いで、ゴールテープのように切る。
点線の向こう側へ落ちてゆく。
頭のほうから、落下する。
向こう側が広がって、宇宙の闇が裏返しになる。
そうして体はゲートを抜けた。
明るい光が上空から差す。
失速した体は、足もとから地面に降りる。
そのまま根が生えて花になる。
パステルカラーの花々が、自分の周りから地平線の彼方まで、風に揺れながら生えてゆく。
波紋のように地面が揺れる。
どこかから、風に乗って歌が聞こえる。
複雑な音程をハミングしながら、すぐ目の前を駆け抜ける――。

ロイは雨音で目を覚ました。
どしゃ降りの雨を受けながら、ゆっくりと起き上がる。
狭い路地の石畳に、大粒の水が跳ねている。
ロイはその場で咳き込んだ。
腕時計を見ると、2本の針はちょうど12を指していた。
昼の12時なのだろうか。胃の辺りがものを欲しがるような、しかし何かを吐いてしまいたいような、気持ちの悪い感じがした。
コートの前ボタンを止める。
目がくらむ……。
ロイは壁に両手をついた。
月のラインを切ってしまった。
嫌悪感と悔しさが、ロイの目に涙を流させた。
月のゲートの向こう側が、ロイのまぶたに焼き付いている。
キリトリ線を見た。幻想花が映したライン。
その門をくぐると、花になった自分の姿。
言いようもない幸福感。ひと晩の夢。
打ち付ける雨が涙と混ざった。
気だるい心とふらつく足で、ロイは路地を歩き出した。
アクアアルタかと一瞬、錯覚してしまう。この水溜りを歩いていると。
かじかんだ手をポケットに入れると、やわらかいものに片手が触れた。
それは残りの花だった。
食べた者に幻を見せる、月の夜のラインゲート。

傘を持ってホテルのロビーへ向かうと、キトは足を止めた。
ロビーから続くフロントで、ずぶ濡れの男がチェックインをしているところだった。
濡れた手で宿帳に名前をサインする。
キトはすぐ横に近づき、ポケットから取り出したハンカチを差し伸べた。
宿帳を盗み見ると、細い筆圧で『ロイ』と書かれている。
ハンカチで水滴を拭うロイの顔を、もちろんキトは知っていた。
けれど、どこか以前とは違う。なんとなくだが、目がうつろだ。
「自分の家に、泊まればいいのに」
キトが喋りかけると、ロイは微かに口角を上げた。
知られたくないことでもあるのかな、とキトは思った。
深く追求はせず、キトはまた歩き出した。
ロビーから入口ドアへ。
表は薄暗く、湿度も濃い。
深呼吸してもすっきりとしない。
傘を開いて、キトは雨の町を歩き出した。
観光客とすれ違うたびに、キトの心臓がドキリとする。
「お前のお祖母さんは、花を栽培してるんだろう?」
聞いたこともないセリフと声が、ずっと自分の心の中で反響している。
「町長に弱みを握られているんじゃないのか?」
周りの人々がすぐ近くでキトに話しかけているかのようだ。
絶え間のない、雨のノイズと重なって、あの時の言葉が蘇える。
「じつは組織の一員でした……でもこのことは、内緒ですよ」
ずっと隠していられるだろうか。あの日以来、マリとまともに喋っていない。
警察はラジをスパイによこした。証拠は掴んだ。
なのになぜ、捕まえに来ないんだ。
キトの足が止まった。
ラジが嘘をついているとは、考えられない。
だけどなぜ、そこまで彼を信用できる?
ため息をつくと、白い蒸気が飛んでゆく。
ラジは元の組織のところへ、帰って行ってしまったのかもしれない。
あるいは、スパイを見破られて、組織からボコボコにされているのかも……。
そこまで考えて、キトは強く首を振った。
あんなことを聞きたくなかった。何も知らず、前と同じように暮らしていられたら……。
立ち止まったキトをさけるように、観光客の足並みは過ぎ去り、キトはただひとり、取り残されているような気持ちがしていた。

フラワーショップ・ナヤのドアを開けると、ドアに取り付けてあるベルが、涼やかな音を響かせた。
一歩中へ入って、窓から外を眺めると、雨はまるで滝のように店全体を打ち付けていた。
「ごめんなさい、お客様。今日は店はお休みなんです」
奥の間から、ナヤのか細い声が聞こえた。
「ナヤ」
キトはたたんだ傘を、ドアの横に立てかけながら、話しかけた。
「僕だよ」
「キトね」
店舗に出てきたナヤは、やわらかい微笑みをキトに向けた。
天使みたいだ、とキトは思った。
微笑み返しながら近寄ると、ほんのりラベンダーの香りがする。
キトの想いに、ナヤは気づいているはずだった。
しかし少し年下だからか、キトを大人の男として見てはくれない。
ちょっともどかしかったけど、それでも今のキトには、安心できる唯一の存在だった。
「お休みって、珍しいね」
「兄さんが、昨日の昼、本土へ行ったきり、帰ってこないの」
ナヤは荒れた両手をさすっている。
「花の配達と、仕入れをしに行ったはずだったのに……電話をしても繋がらなくて」
「大丈夫だよ」
何の根拠もないのに、心配そうなナヤを見て、思わずキトは励ました。
「セドはしっかりした人だから。そうだ、この大雨で、船の時間が延びているのかも」
「それなら、いいけれど……」
ナヤの表情はすぐれなかった。
キトも少し悲しくなった。ナヤが不安だと、キトも不安になってしまう。
すり合わせるナヤの両手を、キトは見つめた。
手に手を取って、慰めたかった。
そんなふうに思ったその時、また店のベルが鳴った。
「郵便でーす」
明るい声と健康的な笑顔が、店の中にやってきた。
透明な雨合羽の下、紺色の帽子のひさしから、水がしたたり落ちている。
「はい。それでは、たしかに」
ナヤに手紙を渡すとき、ちょっと会釈した。
そして再びドアを開け、忙しそうに去ってゆくメールボーイ。
「誰からかしら」
ナヤは封筒裏を見た。とたんに笑顔になって言う。
「兄からだわ!」
「よかったね」
キトの言葉に、「うん」と頷いた。
一度、店舗の奥に行き、ナヤはハサミを持ってきた。
封筒の端を切り開き、手紙を取り出す。
キトは居場所なさげに、お店の壁を見回していた。
飾られたリースが愛らしい。今度、これも買ってあげよう……。
「えっ……!」
ナヤの口から短い悲鳴がして、キトはすぐに駆け寄った。
手紙をナヤから受け取ると、キトは素早く目で読んだ。

『ナヤへ。
家の者が心配しているだろうから、と、警察は僕にこの手紙を書くよう、促した。
携帯電話は調査として没収された。
ナヤ、僕は今、警察署の牢にいるが、心配しなくてもいい。
みな、大人の対応をしてくれている。乱暴な目にはあっていないよ。
あの日、僕は花を届けるために、本土に行ったが、受取人が、いつも待つ場所にいなかった。
どういうことだろうと思っていると、島から僕をつけてきたという、ラジという人物に会った。
その男につかまれて、僕は今ここにいる。
あの花は幻想花だったんだ。
僕は何も知らずに、島から本土への掛け渡しをさせられていたんだ。
洗いざらい、僕は喋った。でも知っていることはこれだけ。
町長が、僕の雇い主。自分の店の花だと偽り、届けるだけで、金をくれていたということ。
本当にそれだけしか知らないんだ。
取り調べのために、僕はあと数日間、この署にいなければならないみたいだ。
残念なことに、ノエルの夜にも、帰れそうにないらしい。
近々、警察の調査員とラジが、町長を洗いに行く、と言っていた。
もしもナヤ、こんな兄を許してくれる気持ちがあるなら、この封の裏に書いた住所に、手紙を一通、送ってほしい。
きみの兄より』

ナヤがキトにこの手紙を見せることを、ラジは悟っていたのだろう。
キトなら、ナヤを支えてくれる、と分かっていて、セドにこんな手紙を書かせたのかもしれなかった。
そのため、マリのことを記していない。
ナヤがキトに打ち明けられるように、セドに、マリのことを言わなかったのだ。
「ナヤ、大丈夫」
キトは手紙をナヤに返しながら、しっかりとした声で言った。
「このことについてはラジに任せて。町長は、ラジが調べに来てくれる。きみから調べに行こうなんて、考えちゃダメだよ」
「どうして、キト。ラジって誰なの?」
「ラジは僕の……」
言いかけて、言葉につまった。
僕の、ボディーガード?
キトは努めて明るい顔をし、ナヤに続けた。
「ラジは僕の友達だ。ねえ、それよりナヤ。今度のノエルの夜に、ナヤを誘いに来てもいいかな。一緒に町を歩いたり、夜のゴンドラに乗ったりしようよ」
ナヤの目が心なしか潤んでいるような気がした。
キトはポケットからハンカチを取り出そうとして、手を止めた。ロイに預けたままだった。
ナヤは奥の間へ行ってしまった。
あっ、と思って追いかけようとしたら、すぐ戻ってきた。
手に細いペンを持っている。
「ありがとう、キト。約束ね。兄さんにも、ノエルの夜は大丈夫だ、キトがいるからって、書いておくね」
セドからの手紙を握りしめ、ナヤは明るくふるまった。
そんなナヤを前にして、キトは自分の頬が、熱くなっていくのを感じていた。

次の日、フラワーショップ・ナヤの前に、たくさんのスーツの男がやってきた。
観光客が、彼らを横目に過ぎてゆく。
しかし誰の目にも、その騒ぎの真相は分からなかった。
ただひとり、店の前の噴水近くから、そちらを見ていた少年以外は。
少年はただ黙って、不審な男たちの行動を遠目に見ていた。
店の写真を撮ってゆく者、花を押収する者、みな静かだったが、迅速に、それぞれの仕事をこなしている様子が見えた。
少年は噴水のふちに腰を下ろした。
背後に、水しぶきの音。ずっと前方からは、海の波音が聞こえてくる。
潮風に吹かれて、雲の流れが速くなる。
あっという間に日が沈み、空に冬の星座が昇る。
雲に隠れた月が、その隙間から町を見ている。
男たちが引き揚げるのを確認してから、少年はゆっくりと腰を上げた。
群衆の中に、少年が待っていた男の姿は、見られなかった。
店の中から、線の細い女性が出てきて、少年を手招く。
駆け出す少年の足取りは軽やかだった。
明るく微笑む女性の顔に、何の問題もないことが表れていたから。

歌うように揺らめいて、何層にも重なって聞こえる、アコーディオンの不思議な音色。
路上で演奏するお爺さんの近くで、リカはワゴンを出していた。
町の看板や、家々の軒下に光る、イルミネーションに負けないくらい、リカのワゴンは華やかだ。
この広場ににぎやかに光る、虹色ストライプのネオン。
後ろの教会の奥からは、賛美歌が聞こえる。
幼い聖歌隊の子供たちが、この日のためにと練習していたのを、リカは知っている。
毎日、この場所で営業していたからだ。
今日は風も出ていない。
丸いキャスケットの帽子を押えて、リカは澄んだ夜空を仰いだ。
自分のワゴンから伸びる風船が、ゆったり揺れるその向こうに、きれいな半月が浮いていた。
空気はとても冷たかったけど、人々の心には、熱い気持ちが満ちている。
夜空に光る星々のように、その目は生き生きと輝いている。
今日が特別な日だからだ。
「リカー、クッキー焼いてきてあげたわよ。食べるー?」
店長がうかれた声を上げながら、リカの元までやってきた。
ふわんふわんのドレスを着て、手に大きなプレート皿を持っている。
お皿の中には、かわいくデコレーションされたジンジャーマンのクッキーが並んでいた。
「店長、お店のほうはどうしたんですか?」
「いいじゃないのよ。ちょっとあなたも、こっち来なさーい。あたしの友達、紹介してあげる」
店長に腕を組まれて、リカは「はぁ……」とため息をついた。
「ほら、みんなー。あたしのカートよ、ステキでしょー?」
店長の呼びかけで、通りの角から、何人かの群れが現れた。
みな、店長と同じタイプの人のようだった。
「あら、ステキ」「かわいいわねぇ」「いろいろ売ってるじゃないのー」
太い声で口々に誉めた。
リカは隣の奏者のお爺さんと目を見合わせて、仕方なそうに笑った。
店長のお皿からチョコチップ付きのジンジャーマンをひとり連れ去ると、口の中に放り込む。
どうやらリカにとっては、今日は特別な日になりそうもない。

町役場の広場の中央に、小さな回転木馬が設置されていた。
馬の数は5台しかない。サーカスのゾウのように、体中に派手な模様をペイントしていた。
メルは自分のかたわらで、満足げにそれを見つめる、父の横顔を見た。
メリーゴーランドの張り出た屋根に、ピカピカと点滅するライトが光る。
父の顔を明々と照らす。
よくこの短期間のうちに仕上げたものだ、とメルは思った。
たぶん、父の手柄じゃない。技術職人が頑張ったのだ、と分かっていた。
それでも、父の嬉しそうな顔を見ると、メルもまんざらでもなく、胸を張りたくなる気持ちだ。
馬の目の中に電飾がつかなくてよかった、と心の底でメルは思った。
「さあ、子供たち。遠慮せずどんどん乗りなさい」
父は興味津々で見つめる、子連れの観光客に向かって言った。
「大人は体重制限があり、乗れないがね」
子供たちの笑い声が響く。
それにつられてか、役場の中から、町長が役員たちと姿を見せた。
笑いながら、回るメリーゴーランドに拍手を送る。
優しそうな顔の町長を、メルは見た。
彼が親子喧嘩で、ロイを追い出したのだろうか?
どんな理由か、ロイも町長も、詳しく話してくれなかったけど、子供好きなあの町長が、はたしてそこまでするのだろうか。
遠巻きに町長を見ながら、メルは首をひねった。
「メル、どこかで一杯やらないか」
父はメルの肩を抱いて、上機嫌に、元気よく言った。
「どうせ今日はモンフルールに泊まるんだ。強いのをいきたいな」
「無理するなよ」
メルは父の腕を振り退けながら、なだめた。
仕事が成功した打ち上げをしたいのだろう。
しかしメルには応えられない。お酒が飲めない口だからだ。
「それに、明日も午後から、配達があるし。ひと足先に、ホテルに戻るよ。母さんと、三ツ星シェフのディナーを食べよう」
メルは父を残して歩き出した。
「おーい、メルー」
父が後ろのほうで情けない声を出していたが、メルは足を止めなかった。
少しかわいそうかな、と思ったけれど、酔い潰れた父の姿は、あまり見たくなかった。
ホテルのほうへ向かいながら、メルは町の見学をした。
毎日歩いているとはいえ、昼と夜とでは違う町の表情だった。
通い慣れた路地も、今は光に満ち溢れている。
ミリのパン屋の前では、オープンカフェが大盛況。
かぐわしいパンの香りが、通行人の足をいざなう。
客の間を、ミリの亭主が行き交っている。
忙しそうに、注文を受け取っているけれど、お腹が邪魔して、カップを倒した。
メルは乾いた声で笑った。ミリの亭主は、いつもピエロのように見えてしまう。
その時だった。
突然、街灯の下に、メルは見つけた。
ひとり寂しげにたたずむ、その姿。
メルをまっすぐ見据えている。
メルは心臓が高鳴った。思わず、彼の名前を叫んだ。
「ロイ!」
ロイは呼ばれても身動きしない。
メルが駆け寄るのを、街灯の下でただじっと待っていた。

すぐ目の前に駆けつけた、メルの問いかけるような視線を受けて、ロイは小さな声で答えた。
「メルがなぜここにいるのか、俺には分からないが、今ここでメールボーイに会えたことは、俺にとって好都合だ。聞きたいことがあるんだろう? そこに座ってくれ」
メルはロイと一緒に、近くのベンチに腰掛けた。
街灯の明かりが、2人の上から降り注ぐ。
「リカも心配してるんだ。お前のことが好きだからだよ」
メルがロイに訴えた。
「僕が知らなかったとでも思っているのか? もう何年一緒にいるんだよ。小学校の時からの友達だろ。悩みがあるなら、打ち明けてくれ。言えないのなら、手紙でもいい。僕に、届けさせてくれ」
するとロイは、コートの内ポケットから、一通の封筒を取り出した。
少しほっとしたメルに向かって、ロイは差し出す。
「同じことをしても、効果がないのは分かってる。だけど俺には、こうするしか他にない。自分で渡そうと思ったが、メル。この手紙を、町長の元に届けてくれ」
「町長に……?」
メルは手紙を受け取った。
「仲直りの手紙なら、喜んで配達するさ」
その言葉に、ロイは悲しそうに笑った。
「そうじゃない。俺は父親の愛を確かめようとしているんだ。メル、不思議に思ったことはないか? なぜ、俺たちは同じ小学校に通っていたんだろう。お前は本土で生まれたから、当然、地元の学校に通う。だが俺は、毎日、島からそこへ通った。どうして。島に小学校があるにもかかわらず、だ」
ロイが急に饒舌に語り出したのを、メルは驚きながらも聞いていた。
ロイは言った。町長が小学校の裏の畑で、幻想花の栽培をさせていたこと。
本土のマフィアに横流しするかわりに、金銭を受け取る。
その汚い金で、この島は成り立っている。
アクアアルタから町を守るため、防水壁を建てるためだとしても、ロイは黒いものが許せない。
父を認めない。
「警察に……」
と、立ち上がったメルの袖を掴んで、ロイはまた座らせた。
「警察に通報するのはやめてくれ。この島がメディアにふれると、観光客も減る。島民はやっていけなくなるだろう。それだけは何としても避けなければ」
深刻な顔をしてロイが言う。メルはもう、何も言葉が出なかった。
「封筒の中に、幻想花の花びらを入れておいた。俺が本土で、夜中に買い取ったものだ。親父の言っていた通り、本当に密売していたんだ。前にも同じのを送ったが、今こうして、俺の捜索願いが出ていないとこを見ると、親父の俺を思う気持ちは、もうなくなってしまったのかもしれない」
ロイは悔しそうに俯いて、両手で自分の頭を抱えた。
「それでもまだ、俺は信じることを捨てきれないんだ。自分の息子を、幻想花のそばで育てたくなかった父の、その時の想いを、呼び戻したい。手を引いてくれることを信じてるんだ。自分の息子が、幻想花の被害者になることに、耐えられる親がいるだろうか?」
ロイはかぶりを振って立ち上がった。
「見ろよメル。この町の幻想を。美しい町並み。きらびやかな光。維持しているのは、犯罪者だ。俺たちは知らずに、ただ表面だけの幻を見ていたんだ」
そして、ロイはポツリと言った。
「変えられないなら、海に沈んだほうがよっぽどマシだ」

メルは町なかを駆けていた。
楽しげな笑い声の間をすり抜けて、来た道を戻って行った。
ロイに、手紙を渡してくるので、あのベンチで待つよう言ったが、おそらく待ってはいないだろう。
あのあとすぐに、小学校のほうへ行く、と言って聞かなかった。
畑を壊すつもりだろう。この町のために、ロイは証拠を消そうとしているのだ。
メルは役場前の広場に着いた。
上下に動きながら、回り続けるメリーゴーランド。移動式遊園地。
その費用を出したのは、他ならぬ町長だ。
この町のため、ロイも町長も、自分の身を尽くしている。
それぞれ違うやり方で。
メルは辺りを見回した。
メリーゴーランドの近くに、メルの父はもういない。
けれど役場の前にはまだ、町長の姿が見えた。
町の人々と談笑している。
メルの足がそっと近づく。
何も言わずに、手紙を町長に差し出した。
町長の顔から笑いが消える。
封筒を開くと、花びらが一枚、その足もとにひらり、と落ちた。
町長はメルの顔を見る。
「僕はロイの友達です」
とメルは言った。
「お願いです。彼を助けてあげてください」
その眼差しに、嘘をついている欠片もなかった。
「この島にロイはいるのか?」
「今、畑のほうへ行きました」
町長は封筒をしわくちゃに握りしめ、人々を押し退けて駆け出した。
「花に近づいちゃいかん!」
町長は心の底から叫びながら、絡みそうになる足を、一生懸命、動かした。
走り去る背中を見送って、メルは、その場で目を閉じた。
もう……大丈夫だ。
ロイ、きみの信じたように、まだ父親は、息子を想う。
僕には、手紙を届けることしか、他には何もできないけれど、互いに心を通じ合わせることに繋がるのなら、これ以上のやりがいはない。
開いたメルの目の中に、ライトアップされた町並みが映った。
幻なんかじゃない。
ちゃんとこうして、ここにある。

校舎の裏に回ると、町長は高鳴る胸を押えながら、辺りの様子をうかがった。
小さな畑のある場所に、いくつもの白い光が浮かんでいる。
月のライン。
夜に光る、花びらのライン。
町長は静かに歩み寄ると、花々の間で横たわる人影に、目が行った。
左手に、今、摘んだばかりの花を。右手は人差し指を立て、空を指している。
影はその指で何度も、何度も、何かを切るような仕草を見せる。
町長はその病状に、思い当たることがあった。
ラインを切っているのだ、と確信した。
町長は近寄ってその身を起こさせ、腕に強く抱きしめた。
ロイ、もういい。どうか許してくれ。
町長の口から、声にならない嗚咽がこぼれた。

『親愛なる兄さんへ。
兄さんの言った通り、ノエルの翌日に、たくさんの警官たちが本土から来て、自宅にいた町長を、そちらへ連れてゆきました。
町のみんなは、どういうことか分からない、という顔をしていましたが、警官たちと一緒にやってきた、ひとりの人が、金を横領した形跡がある、と言って、その場で町長を取り押さえました。
そう言ったひとりの人こそ、キトの友達のラジだそうです。
おかげでこちらでは今、次の町長になりたいという人たちが名乗り出て、町を騒がせています。
こんなことは20年くらいなかったことです。だってみんな、前の町長を慕っていたから。
それでも一番ショックを受けたのは、町長の息子さんです。彼は今、本土の病院で療養中。
お父さんの罪に、心に大きな傷を負ってしまったから、と言っていました。優しい息子さんですね。
そうそう、キトのホテルの支配人も、変わりました。
マリお祖母さんは年のせいで、都会のほうが住みやすい、と言って、キトをおいて出て行ったの。
今の支配人も、もともとモンフルールに勤めていた従業員の人だったし、キトも寂しくないと言っていました。私には、それが強がりだと分かってたけどね。
そうだ。いろんなことがあって言うのが遅れました。
じつはこの島で唯一、花の咲く場所があったの。
前はよく分からない雑草が生えていて、ずいぶん荒れていたそうだけど、それって、アクアアルタにも浸からない場所、ってことだよね。
私が発見したんじゃないんだ。
キトとラジが、お店を閉めて沈んでいた私のために、見つけてきてくれたんです!
本当によかった。だってここにタネを蒔いて、育てた花を、またフラワーショップ・ナヤで売れるかもしれないんだもの。
花の収穫期には、兄さん、手伝いにきてくれるかな?
兄さんの帰りを、心待ちにしています。
ナヤより』

ホテルの大きな窓ガラスを、キトは掃除していた。
日差しが肌に暖かい。
マリは捕まってしまったけど、キトには今、ナヤがいる。
毎日、午後には、畑の手入れをかねたデートだ。
キトはいつも以上に丁寧に、窓を磨いた。
そこから表を眺めると、ホテル入り口へ続く、短い階段を、ゆっくりと上ってくる男を見つけた。
キトは急いでロビーへ向かった。
大きなドアが開き、男が入ってくる。
相変わらずの、黒いスーツに銀縁眼鏡。ラジだった。
「おかえり、ラジ」
キトは笑いかけながら迎え入れた。
「ただいま戻りました」
ラジの口元も笑っている。
ラジは本土と島を、行ったり来たりしている毎日だった。
マリと町長、そしてセドによる幻想花の流通をあばいたあと、本土で対策本部を立て、警察官たちと一緒に、ノエル翌日の突入を計画していたのだ。
計画は念入りにと重ねられた結果、この島の評判を落とさないかわりに、幻想花に関わっていた、すべての人たちの真相を隠す、という手段にいたったのだった。
幸い、町長を脅してデラの居場所を吐かせるという、当初の計画は無用だった。
町長は改心して、自ら居場所を教えたからだ。
しかし、いくら真相を隠してもらえたからといっても、罪は重い。
町長、マリ、セド、そしてロイの4人には、それなりの懲罰が与えられるだろう。
デラの組織を検挙したといって、ラジもすぐさま、警察から解放されることはなかった。
これからも正しい側の立場につき、二度とこのようなことを起こさないためにも、島の警備を任命されたのだった。
午前中は本土の警察署。そして午後からは島の警備にと、ラジはその身を使われることを、了承した。
島での主な活動拠点は、ホテル・モンフルールだった。
観光客のもっとも集う場所として、あてがわれた。
口に出しては言わないが、それを一番喜んでいたのは、キトだった。
落ち着いた大人のラジには、どんなことも相談できるし、頭もいいので、的確なアドバイスもしてくれる。
ラジは手持ち無沙汰のように、両手をこすり合わせ、周囲を見回し、そして手の平を広げて見せながら、キトに向かってこう言った。
「さて、何かお手伝いすることはありませんか?」

リカはレジカウンターの前に立ち、商品の在庫表に目を通していた。
「店長、そろそろイースターエッグを仕入れたほうが、よくないですか?」
店長は店のすみに、大きな全身鏡を置き、自分に似合う服はどれか、店中の洋服をあてて見ていた。
足もとには色鮮やかな布や、たくさんのハンガーが散らばっている。
「うーん? 3月まであと2ヶ月もあるのにー?」
伸びたような声を聞き、リカは額に手を当てた。
「季節の先取りをして、商品の買い付けをしなきゃいけないんです。今月から、町への寄付も行うことにしたでしょう? 売上げの一部を、って。赤字だけはイヤですからね。お給料も、しっかり払ってもらいます」
強気に喋るリカだったが、店長はどこか、うわの空。
鼻歌など歌いながら、鏡の前で一回転して、衣装をチェックする。
もともとこれも、店長の好みで仕入れたものだ。
好きなものに囲まれて、店長はいつ見ても、幸せそうな人だった。
リカは両腕を組んで言った。
「これから私、本土に行く用があるんですから。寄付金のパーセンテージくらい、ちゃんと決めておいてくださいよ」
アクアアルタから浸水の被害をなくすため、防水壁を建てる費用を、島の住民は、寄付金として集めることになったのだ。
寄付するかは強制ではない。
しかしみんな、この町に住み続けたい気持ちがあるので、それなりの額が集まるはずだ。
数十年以内には、アクアアルタのあの光景を見ることは、もうなくなるだろう。
しかし歴史として語り継がれる。
観光地としても、これから先、やっていけるに違いない。
「ボーイフレンドのとこに行くの?」
突然の店長の問いに、リカはあわてた。
「ち、違います。買い付けです。ロイのとこへは、ついでに、様子を見に行くだけです!」
店長は「もー、かわいいんだから」と言って、低い声でクスリ、と笑った。

オープンカフェで紅茶を飲みながら、町の通りを見ていると、じつにさまざまな人が行き交っていることに、気がついた。
杖をついたお爺さんや、にぎやかにたわむれる子供たち。
木材を運ぶ大工。
釣竿を下げた漁師。
肌の色の違う人々。
写真を撮っていく人。
スケッチをする人。
知り合いと出会い、急に立ち話をし始める人……。
同じような毎日でも、1日として同じ日はない。
見ていて飽きないな、とメルは思った。
町の魅力は、家々の建築美だけじゃない。
そこに住まう人々や、訪れる人の一人ひとりも、この町の一部として魅力があるんだ。
カップをテーブルに置きながら、ふとメルは腕時計を見た。
「わっ、いけない」
まだ配達が残ってたんだ。
「ごちそうさま!」
オープンテラスから、開いたパン屋の入り口に向かって声をかけると、中で接客していたミリが振り向き、メルに大きく手を振った。
弾むような足取りで駆け出すメルも、多くの人たちと同じ。
この町の景観の一部になっていた。
◆ E N D
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