2018
10.07

アパルトマンで見る夢は 15 メガネ

Category: 小説


 らせん階段の壁画の前で、かけるは自分の入れた、Kakeru T.というサインを見ていた。

 透き通った、コバルトブルーの絵の前で、一人無言で立ち尽くす。

 メガネの奥で、目を閉じた。

 麦色のカンカン帽をかぶった頭を、帽子ごと壁に押し当てる。

 斜めになった体から、重力でネクタイだけが垂直に下がった。色鮮やかな、ネクタイの裏地が揺れている。

「カケルクン」

 と、すぐ後ろから声が聞こえた。かけるは、壁に手をついて頭を離し、振り返った。

「カケル・タダ……ペンネームを入れたのなら、この絵は完成したのですね」

 と、スーツの男が、ボストンバッグを肩にかけ直しつつ、フランス語で言ってきた。

「出発は、お父様には言われたのですか?」

「いや。子供じゃないんだから、お別れの挨拶なんてしないのさ」

 かけるは男に笑って見せた。男は黙ってかけるを見ていた。

 かけるが沈黙に耐えかねて、首を傾げて伺うと、男は控えめに微笑みながら、かけるに話した。

「いえ、これは前から気になっていたことなのですが……、あなたはなぜ、偽物のメガネをしておられるのですか?」

「ああ……伊達メガネのこと?」

 かけるは指先で、黒縁メガネを擦り上げた。

「なんて言ったらいいかな……まあ、トレードマークみたいなものかな。もう分かってるとは思うけど、僕は、形から入る人間なんでね」

「なるほど。帽子のコレクションも豊富なようですし……オシャレな人だ」

 かけるはカンカン帽を頭から取り、胸の前に当てると、礼をして見せた。「ありがとう」と、男に小さな声で言い、またかぶる。

「私は、よきライバルに巡り会えたことを、幸運に思いますよ。あなたは、アイデアの泉となるのです。では、参りましょうか」

「ああ……もう少しだけ……」

 かけるは男に明るく言った。

「先に行っててくれ。必ず追いつくから」

「……いいでしょう。それではまた、後ほど」

 男は靴音を響かせて、階段を下りて行った。表情からは読み取れなかったが、心が弾んでいるような、軽やかなステップだった。

 かけるは壁の絵を、手の平でそっと撫でてみた。ざらざらとした冷たい感触が、皮膚の表面を軽く擦る。

 それから足もとに置いていた、茶色いトランクを手に持った。

 歩き出そうとしたその瞬間、太くて大きな声が、どこからか響いてきた。

「おーい!」

 声は短く反響したので、その出所が分からなかった。かけるは手すりに掴まって、階段から身を乗り出し、下を見た。誰もいない。反対に、今度は上を見てみると、段のずっと上のほうで、父親が顔を覗かせているのが見えた。

「ようっ、要二!」

 呼ばれて、かけるは下から、同じく大きな声で応えた。

「なにー?」

「頑張れよっ!」

 父親は一言、息子にそう言い放つと、少し恥ずかしそうに、階段から奥の通路へと引っ込んで行った。

 笑いながら、かけるは再び歩き出した。階段を下って、アパルトマンの外に出た。

 丘の上から、見慣れた街並みに目を馳せる。かけるはメガネを外すと、一度だけ立ち止まり、その景色を目に焼き付けた。

 その時だった。流れの速い風が、坂道を通り過ぎて行った。風はいつかと同じように、かけるの帽子を吹き飛ばすと、ふわりふわりと、坂の下へと運んでいった。

 メガネを手に持ったまま、かけるは帽子を目指して、駆け出した。

 坂に流れる柔らかな風が、彼の髪を優しく揺らした。



◆ E N D






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