2018
04.16

稲妻トリップ 5 溶ける時計

Category: 小説


初日はデパートの構造を調べるために、すみずみまで歩いた。

非常階段に、裏口。各階の開けられる窓は全て開け、逃走ルートを想像してみた。

トイレ。社員食堂。救護室。エスカレーターにエレベーター。

フロアを全て巡ることで、従業員たちにも顔と名前が知れ渡った。

新しい青い制服の下で、汗ばんだ体。

昼になり、腰に付けていたトランシーバーから、交代を告げる先輩の声がした。

「了解しました。今、そちらに戻ります」

防犯カメラからの映像が、大型モニターに分割して映る監視室。

そこで待っていた中年の先輩が、食事を取るよう言ってくれたが、僕の目は、その画面の一部をとらえていた。

屋上が映っている。まだ見回っていない場所だった。

僕は先輩に一礼すると、足早に向かった。



海を目にすると、僕の心に、何かが溶けていくような感じがした。

チーズのように、とろけていく時計。有名な絵画のイメージが、頭に浮かんだ。

行ったことなんてない場所。でも、なぜだか分からないが、知っているような気もする。

まるで、記憶が上書きでもされているかのような、妙な気がした。

そうだ、あの海辺に昔、小さな工場が建っていた……と、僕は思った。

僕は高架橋の近くを、パトカーに乗ってパトロールしていた。そこへ署からの無線が入った。

「至急、工場へ向かってくれ。青村くん、きみが一番近いんだ」

そう指示されたような気がした。

僕は行ったのだろうか、だが、はっきりとした記憶がない……。

「あらっ、お婆さん」

ベンチに座っていた彼女が、やってきた老婆に気付いて、優しく話しかけていた。

「ここは屋上ですよ。もう、また迷子になっちゃったのね」

彼女、AKIYOSIさんは、腰の曲がった白髪の老婆を、僕の手に預けた。

「この方、うちの常連のお客さんなんだけど、よく道を間違えるの。警備員さん、お願いします」

僕は「はい」と頷いて、老婆の手を引いた。

「ごめんなさいね、お兄さん」

年老いてはいるが、その声には品があった。手にシワもあまりなく、乱れのないキレイな服装をしている。

ただ、目が悪いのか、濃いめのサングラスをかけていた。

「お兄さん、いくつ? あらあら、うちの孫と同い年。お名前は? へぇ、聞いたことないわ、新人さん?」

屋上から、今来た階段を、老婆を支えて下りながら、僕は短い会話を交わした。

けれど、その時僕が考えていたのは、彼女、AKIYOSIさんのことだった。

あきよし、か……。

何かの縁だろうか。僕が十年前、警察官を辞めるきっかけになった事件の、被害者と同じ名前だった。



あきよし。

漢字は違うかもしれない。だが十年前。と、すると、歳は合う。

繁華街の片すみで、泣いていた少女。傍らに、彼女の父親らしき男が、血だまりの中に倒れていた。

「何があったんだ? きみ、名前を言えるかい?」

パトロール中だった僕は、救急車に電話をかけながら、少女に尋ねた。

少女は恐怖に怯えていて、何も答えられなかった。僕は、父親の着ていた、緋色がにじんだ上着に、名札を見つけた。

「秋吉……。大丈夫だよ、お兄ちゃんが助けてあげるからね」

少女は小さく頷いた。その両手は、なぜか焦げたように、真っ黒い色で染まっていた。

「今回の事件には関わるな」

と、警察署長が僕に言った。

「忘れるんだ。組織がでかすぎる。このまま何知らぬ顔をして、お前が生きていくというのなら、ここで雇い続けてやる。しかし……」

僕は、首を縦に振れなかった。

「お前、自分を誰だと思っているんだ? お前に何ができる。青村くん……お前が辞めたところでな、こっちには何の損害もないんだよ」

署長は嫌な笑いを顔に浮かべながら、僕に低く呟いた。

「まだまだ青いな、そして馬鹿な奴だ。自分の代わりなんて、いくらでもいるっていうことが、どうやら分かってないみたいだな」

ゴミを捨てるように、首を切られた。

まぶたを開くと、見慣れたマンションの天井が見えた。

……夢か……。

だが、それは現実だ。

ベッドの中で寝返りを打ち、壁にかけてある時計を、薄目で眺める。

あぁ、また……チーズのように、溶けてゆく……時計が落ちる……。

もう一度、目を閉じた。

夢の中に引きずり込まれる。

それでもいい。

僕は今、今の自分のことを、考えていたくないんだ。



● NEXT → 稲妻トリップ 6 今日のこと






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