2017
12.15

月のライン 2-1

Category: 小説


 広い噴水のへりに、男がひとり座っていた。

 もう何時間もここにこうして待っている。

 黒いスーツに銀縁眼鏡。

 眼鏡はダテで、視力はいい。

 見えないものまで見えるほうだ、と、自分では思っている。

 前を通り過ぎてゆく、街灯に照らされた観光客の表情を、見て見ぬふりして座っていた。

 時々、足を組み直し、そ知らぬ顔で。

 ピチャン、ピチャン、と水の跳ねる音がする。

 後ろの噴水からじゃない。男のひざ下まで、アクアアルタが迫ってきていた。

 通行人が波を起こす。それにも動じず。男の長い足は黒いブーツで守られていた。

 男はホテルの警備員だった。

 ラジ、という名前だが、それは本当の名前じゃない。

 32歳といっていたが、もう少し若いかもしれないし、もっと年をとっているかもしれない。

 誰もラジに気をとめないし、ラジもそれでよかったのだ。

 ただひとり、警備をするホテル経営者の、後継ぎ息子以外は。

 息子の名前はキトという。島でいちばん、興業成績を収めているホテルの御曹子だった。

 島にはいろんな人が来る。

 ただ観光だけじゃない。よからぬことを考えている者もいるかもしれない。

 息子の誘拐を恐れた身内は、ラジにボディーガードを任せた。

 前例や、そんな素振りはいっさいない。

 にもかかわらず、ラジをガードに付けたのは、他ならぬラジ自身が仕掛けたことだった。

 ラジは望みを叶えるために、切れる頭を使うのだ。

 しかし、上手くいくとは限らない。

 今もこうして、わがままなキト坊ちゃんに振り回されているのだから。

 ラジは通りの向こうの、花屋を見た。

 表で待ってろ、と言ったきり、坊やはそこから出てこない。

 ラジの腕時計は、6時を回っていた。

「もしもし……局長ですか?」

 電話をかけながら、隣のふちに座った男を、ラジは見た。

 年はハタチ過ぎくらいか、その格好には違和感があった。

 紺色の制服、襟のふちや袖口には、赤いラインが入っている。

 大きな鞄を大事そうに抱え、見えない相手に電話し続ける。

「すみません、そういうことなので、帰りは明日、フェリーが来る9時過ぎくらいになると思います。こちらは速達はないので大丈夫だと。はい、僕はどこかに泊まりますので。本当に、すみませんでした」

 電話を切って、ふっと肩を落とす。その足には、ラメの入った長靴が見えた。

 メールボーイだ。

 ラジの直感はラジの心にこう言った。

 この男を使うか。キトを喜ばせられるだろう。

「この近くに」

 ラジは唐突にメールボーイに話しかけた。

「ホテル・モンフルールがあるだろう? あそこの中のレストランは、三ツ星シェフの絶品だ。朝食はルームサービスで、ただっていう噂だぜ」

 メールボーイはふと丸い目をしてこちらを見たが、「それは……そうですか」と言って、ひざに手をつき、立ち上がった。

 歩き出そうとする彼の背に、ラジは声をかける。

「モンフルールのシングルは、1泊4千円と格安だ」

 すると彼はラジを向いて、

「どうもありがとう。この近くですね、行ってみます」

 と笑顔を見せた。

「モンフルール……あの変わった名前のホテルだな」と呟きながら、波を立てて歩いて行った。

 ラジも微笑んで見送った。

 厳密にいうと、ここから一番近いホテルは、モンフルールじゃない。

 しかしメールボーイは行くだろう。キトのホテル、モンフルールへ。

 そのために、ラジは2回も言ったのだ。

 メールボーイが見えなくなったあと、花屋の扉がドアベルを鳴らして開いた。

 15歳のかわいい坊やが駆けてくる。手に豪華な花束を持って。

「待たせたね、ラジ」

 透き通った声に、ラジは首を横に振った。

「いいんですよ。それより、その花束は」

「これはロビーに飾るためだよ」

 にっこり笑うキトを見て、ラジは心でこう言った。

 花屋の愛しの店員に、キト坊ちゃんはぞっこんだ。

 この様子だと、まだ当分、俺は振り回されるだろうな。

 この噴水のへりが、俺の指定席にならなければいいが。

「帰るよ」

 キトが急かすので、ラジはすっと立ち上がった。そして水をかき分けて歩きながら、

「そうそう。メールボーイの男をひとり、ホテルに誘導させました。ラメ入り靴の男ですよ」

 と言うと、キトは立ち止まり、とびきりの笑顔でラジを見上げた。

 しかしそれも、ラジには計算済みだった。

 眼鏡のふちに手をかけ、直すと、街灯の反射でキラリと光った。



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